日本の公娼制度は奴隷制度である
秦氏は2013年.6月13日の TBSラジオ 【荻上チキ・セッション22】番組上で、対局相手の吉見義明氏が内地の公娼制度も性奴隷制度だと思う、と発言するとそれに反発している。
吉見 ・・・・・・内地の公娼制度も、僕は性奴隷制度だと思いますけれども、 それはなぜかっていうと、要するに人身売買を基礎にして成り立っているわけですよね。 ・・・・・(略)
これに対して秦氏は
秦 ・・・・・・ ちょっと私それはね、同意しかねますね。内地の公娼制をね、これが奴隷だということになってくると、 そうすると今現在オランダの飾り窓のね、女性たちだ、ドイツも公認してますしね、それからアメリカでもね、 連邦はだめだけれども、ネバダ州は公認してるんですよ。これみな奴隷、性奴隷てことになりますよね。
と答えている。「「内地」つまり「日本の」公娼制度は奴隷制度であった」という意見に反対しているのである。
ところが秦氏はかつて『慰安婦と戦場の性』の中で、日本の公娼制度についてそれを「奴隷制度・・・にちがいない」と書いているのである。
書きだしてみよう。
しかし娼妓達が自由を奪われた悲惨な「かごの鳥」であるという実態は変わらず、救世軍などによる廃娼運動が盛り上がるのを見た内務省は1900年に「娼妓取締規則」を制定して、全国的な統一基準を作ろうと試みた。だがこの法令が一般的に近代公娼制度を確立したものと評されるように、必ずしも彼女たちの境遇が著しく改善されたわけではなかった。たとえば、前借金が残っていても廃業の自由は認められたが、楼主(抱え主)側の妨害や警察の非協力があり、実際には廃業しづらい上に、新たな生業につくにも容易ではなかった。また廃業しても、前借金の契約自体は有効(1902年の大審院判決)とされたので、借金返済のできぬ女性は元の境遇に戻らざるを得なかった。
(『慰安婦と戦場の性』P28)
悪徳業者にかかると、女の稼ぎから割高の衣食住経費を差し引くので、前借金はなかなか減らず、強欲な親が追借を求めたりすると、雪だるま式に増える例も珍しくなかった。 (『慰安婦と戦場の性』P36)
まさに「前借金の名の下の人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」(廊清会の内相あて陳述書)に違いない。 ● (『慰安婦と戦場の性』P36、37)
「前借金の名の下の人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」という意見を「違いない」と書いている。
こうして秦郁彦氏自身が明らかに「日本の公娼制度は奴隷制度であった」という考えを自著の中で肯定しているのである。もしそれが「一部悪徳業者」のことだけを言っていたつもりだとしても、その前に「娼妓達が自由を奪われた悲惨な「かごの鳥」であるという実態は変わらず」(P28)と娼妓全体が縛られて自由が無く窮屈な「かごの鳥」であったと書いている。
それなのに「内地の公娼制度も、僕は性奴隷制度だと思います」という吉見氏の意見に対して秦氏は「それは違う」と述べて否定している。
これはもう何が言いたいのか?まったく分からないが、とにかく自分の過去に書いたものさえ否定して詭弁の言い逃れをしていると言う以外のなにものでもあり得ない。
甚だしい欺瞞がそこには存在しており、自分の書いたものさえ否定しながらその場しのぎの言い逃れを述べ、まるでソクラテスに論争を挑んだソフィストたちのように論争に勝つための詭弁に終始している。
そして日本の公娼制度の話をしているのに、なぜかドイツやアメリカの公娼制度に話をすり替えているのである。
海外では個人で営む自由売春が多かったが、都市での売春システムは、しばしばギャングの資金源ともなっていたようだ。日本の売春システムは、ヤクザ者、女衒、収奪に近い搾取をおこなう遊郭業者の伝統の中で、さらに輪をかけて悲惨であり、世界一の規模を誇っていた。一大遊郭国家が実現しており、明治の開国後も「貸し座敷」の仮面をつけた建前と裏の実態の大きな乖離の中で、政界や警察と癒着しながら近年までその悲惨な姿が保たれていたのである。
江戸時代の吉原などの遊郭は、この稼業に落し込んだ娼妓を客から金を抜きとる道具として酷使し、一応の法を全て御破算とする裏道を造って娼妓に廃業させず、梅毒に廃人となるか、死ぬかしか抜け道もないような苛酷な世界であった。だからこそ日本では、業者を「忘八」と呼び、娼妓業を「苦界」と呼んだのである。そこには人権など存在していなかった。娼妓達はただただ楼主のために金を稼ぐ道具であり、金もうけ至上主義から日本独自の「回し」という5人でも10人でも客がいる限り、客を取らせるという血も涙もないやり方が蔓延したのである。これはもうそれ自体を”集団強姦”というしかないだろう。その上楼主はピンはね
の上にもピンはねを重ねたので、神埼清は昭和期でさえ「玉割は、9対1の比率」であるばかりでなく、「着物を新調させて莫大な金利を負わせ、手元に残らないようにしたのだ」と書いている。(神埼清『売春』現代史出版会より)
日本軍慰安婦はこの日本の遊郭の伝統を引き継いで造られたので、一部の酌婦を除いて「回し」を専門にし、多くの場合、業者にピンはねをされていたのである。水野いくさんは「(私は)1日一人相手にすれば良かった。朝鮮人とクロンボはたくさん客をとらされていた。」(宮下忠子『思川 山谷に生きた女たち 貧困・性・暴力 もうひとつの戦後女性史』)と述べている。
ところが、たいていの国の娼婦達はどうであろうか?秦氏が例示した現在でも存在するというネバダ州の公娼制度下の売春婦たちは、「前借金の名の下の人身売買」の後「苦界」に沈んだのであろうか?一日に何人くらいを<回し>をさせられているのか?ピンはねはどのくらいあるのか?どの程度苛酷な世界なのかを秦氏はちゃんと示すべきである。
それが甚だしく人権を蹂躙しているなら、今頃アムネスティや国連人権委員会あたりが糾弾しているはずだが・・・もしそれが日本の公娼制度と似た制度であるというなら、ぜひ秦氏はネバダ州で声をあげ「現代の奴隷制度を廃止せよ」と叫ぶべきである。
しかし秦氏は決してそうはしないだろう。
ただの言い逃れに過ぎないからである。
自分が昔書いた事をコロコロと翻し、それとはまったく異なる別の意見をいうのが、秦論説の特徴であると言える。いわいる”カメレオン戦術”というやつで、論争する相手は秦氏が昔書いたり、言ったりした内容を全て覚えている訳ではないので、翻弄される事もあるだろう。その場しのぎで相手を負かすことのみを目的としているので「私・・同意しかねますね」と平気で言えるわけだが、それは自分が昔書いたものさえ否定してしまう。例え「同意できない」にしても、以前自分が書いていた内容を考慮し、「部分的にですが同意します」というしかないだろう。
この意見をコロコロ変わる姿勢は、著作物全体に及んでおり慰安婦問題で85年の著作や92年の著作では近現代専門の歴史学者の中では、唯一「朝鮮半島で半強制的に連行した」と書いているのだが、いつの間にか翻し「朝鮮半島で強制連行は無かった」と言い始め、「慰安婦の人数」について9万人とかいうそれなりに妥当な数字を書いていると思ったら、やがて1万数千人にまで減らしている。その7年の間には、これほど大きく意見を変えざるを得ないような新事実が発見されたわけでもなく、政治的な思惑が有ったものと思われる。
1993年、秦氏が『昭和史の謎を追う〈上〉〈下〉』を書いてから、1999年に『慰安婦と戦場の性』を書くまで7年間に、自民党内部では、靖国3会派によって歴史検討委員会が立ちあがり、日本侵略戦争の正統化と慰安婦否定を始めた。やがて「明るい日本国会議員連盟」や「教科書議連」に繋がり、その方面では隠然たる力を持っていた奥野(元法相、元国土庁長官)が「慰安婦は商売」と妄言し、国内外に批判を呼び起こした。
こうした過程の中でこれに連動・呼応して96年には『日本を守る国民会議』が慰安婦否定キャラバンをしたり(9月22日~)、慰安婦否定に主眼を置いた『新しい歴史教科書を造る会』が生まれたりしたのである。こうしてそのお仲間である秦郁彦氏は、唱える意見を次第にスライドして行ったのであろう。
近現代専門の歴史家の中では唯一「強制連行説」を書いていた秦郁彦
慰安婦問題には前史というべき期間がある。1991年8月、金学順さんが名乗り出て以来たくさんの元慰安婦の方々が名乗り出て来られ、戦後補償裁判になると共に統計処理が始まり吉見義明氏達の歴史学実証研究の対象となったのである。
こうした研究の前には、戦記や日誌、日本人元慰安婦の証言や兵士の証言、それを追いかけたルポなどが書かれていた。
その代表的著作の一つである千田夏光の『従軍慰安婦』の解説を書いた秦郁彦氏は、
『日本陸軍の本・総解説』 (1985)で
「昭和期の日本軍のように、慰安婦と呼ばれるセックス・サービス専門の女性軍を大量に戦場に連行した例は、近代戦史では他にない。その7・8割は強制連行に近い形で徴集された朝鮮半島の女性だったが、建前上は日本軍の「員数外」だったから、公式の記録は何も残っていない。・・・・他に類書がないという意味で貴重な調査報告といえよう。」
と書いている。
私の知る限り、この時代、近現代専門の歴史家の書いたもの中でこんなに明確に「7・8割は強制連行に近い形で徴集された朝鮮半島の女性」などと書いた例は他に知らない。家永裁判で有名な家永三郎氏が吉田清治の著作を鵜呑みにしたものはあったが、家永氏は歴史学者ではあっても、古代思想史が専門であり、近現代専門の歴史家ではない。
近現代専門の歴史家がこんな風に書いた意味は大きい。最近の右翼論壇では「朝日が捏造した強制連行」などと非難するのが流行らしいが、朝日もまたこの手の秦氏の主張に影響を受けた可能性が高い。なんせハーバードやコロンビア大学で学び、プリンストン大学で教鞭をとったほどの専門家がこう書いているのだ。専門家でも何でもない1新聞社の記者が「従軍慰安婦=強制連行」と書いても無理からぬところであろう。
さらに1993年の『昭和史の謎を追う〈下〉』ではこう書いている。
・・・・・・・その後も軍服まがいの服装に軍刀をぶらさげて「軍命令」をちらつかせたり、「いずれ女子挺身隊で徴用されるぐらいなら」と言葉巧みに持ちかける業者や周旋人が横行した。ところが、1941年夏の関特演あたりから朝鮮半島で官斡旋の募集方式が導入されたようだ。 関特演は対ソ戦の発動に備え演習の名目で在満兵力を一挙に40万から70万へ増強する緊急動員だったが、島田俊彦『関東軍』 の記述や千田夏光が主務者の関東軍後方参謀 原善四郎元中佐からヒヤリングしたところでは、約2万人の慰安婦が必要と算定した原が朝鮮総督婦に飛来して、募集を依頼した( 千田『従軍慰安婦 正編』 )
結果的には娼婦をふくめ8千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事 → 群守 → 面長(村長) のルートで割り当てを下におろしたという 。 実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘達は一抹の不安を抱きながらも ”面長や巡査が言うことであるから間違いないだろう”と働く覚悟を決めて」応募した。実情はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」( 金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』 )になったと思われる。● ( 『昭和史の謎を追う(下)』 秦郁彦 著第41章 従軍慰安婦たちの春秋 P334,335)
面長や巡査が「半ば勧誘し、半ば強制」で集めたというのである。
このようにして、「連行時における半ば強制」を認めていたが、やがて吉田清治のデタラメを暴くとともに、「吉田清治の言うような強制連行は無かった」という見解を強引に捻じ曲げ、「強制連行は無かった」と意見を変更、変節したのである。
人間がコロコロと意見を変えれば、その人の意見は信用できないというしかない。
なぜなら、その人は今はこう書いていても、またどうせ変えてしまうからである。そういう一時の気の迷いのような説を信用するのはばかげている。一方において、吉見氏の学説は、非常に多くの一次史料に裏付けられており、変更する必要も無いものである。
さて、次は秦氏の述べる「慰安婦の人数」について言及しよう。これも大きく変えている。
9万人と2万人弱ではあまりに違いすぎると思うが。
慰安婦問題研究家 堀家康弘
「秦郁彦氏が自分で反論したいなら相手になるよ」