2018年5月4日金曜日

ベトナム戦争を巡って、FBでのやりとり 


https://www.facebook.com/groups/comfort.stations.issue/permalink/1676721972586363/

康 昌宗さんが投稿をシェアしました。
姜 聖律さんのご投稿を共有し、記事の一部を抜粋します。
韓国の歴史を記録するために、韓国内にも「ベトナムピエタ」が設置されることを願います。
『ベトナム ピエタは縦横70センチ、高さ150センチ、重量150キログラムのブロンズで製作される予定だ。重量450キログラムの花崗岩がベトナムピエタを支える。
 キム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏は12日、ハンギョレとのインタビューで「韓国政府は日本軍『慰安婦』被害者問題に関して、日本政府に正確に謝罪を要求し、受け取らなければならない。 また、ベトナム戦争における民間人虐殺に対しても正確に謝罪しなければならない。 現在韓国政府は二つともできずにいる」と話した。 キム・ソギョン氏は日本軍「慰安婦」被害者たちが提案して設立された「蝶基金」事業の一環で昨年ベトナムを訪問し、韓国軍による強姦など女性への性暴力事例を共同調査した。 韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)と韓国・ベトナム平和財団建設推進委は被害者ハルモニ(お婆さん)の基金などでベトナム民間人虐殺問題を調査・研究している。』
------ 以下、姜 聖律さんのコメント
 日本軍「慰安婦」問題を政治的な妥協で幕引きしようとする韓国政府は、韓国軍のベトナム戦争での虐殺行為についても頬かむりをする。日本大使館前の少女像を移転すれば、ベトナムピエタが韓国国内に建つ。
 韓国政府は、日本軍「慰安婦」に対する公式謝罪と法的賠償を日本政府に要求せよ。そして、ベトナム戦争における虐殺行為に対して、公式謝罪と法的賠償を行え。

ベトナム民間人虐殺に目を向けた キム・ソギョン、キム・ウンソン作家
JAPAN.HANI.CO.KR
康 昌宗さんに関する情報はこちら。

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掘家 泰弘 意見を募るためにこっちにもコメントしておきます。
「戦争の傷跡をモニュメントとして残す」という行為は必要なものだと思いますが、「ベトナム戦争における民間人虐殺に対しても正確に謝罪しなければならない。」はどうでしょうね?
私が昔調べてみた範囲では、「北ベトナム・南ベトナム民族解放戦線」側も多数の南ベトナムの民間人を殺害していると思います。にも関わらず、偉そうに謝罪を求める権利はベトナム政府には存在していない。この問題はク・スジョン記者が『ハンギョレ21 』(1999年 05月 06日 第256号)に書
いたのが発端ですが、1997年にベトナム政治局から出された「戦争犯罪調査報告」に多くを依拠している。そのためベトナム政府側が犯した犯罪のような住民虐殺についてはまったく記述していない。そのような情報の偏りの中で書かれているものです。ゆえにもし韓国政府が謝罪するなら、ベトナム政府と共に巻き添えをくったベトナム民衆に対して謝罪すべきであって、ベトナム政府に対して謝罪する必要はまったくないでしょう。ベトナム政府は民間人虐殺の正犯人だからです。

北ベトナムの支配下であり、武器と人員の支援を広範に受けていた民族解放戦線のテロは、南ベトナムの要人ばかりではなくその家族にまで及んでおり、また地方官僚の一族を根絶やしに殺すような事例さえあり、そのうえ共産側が多用したB10砲兵ロケット砲は、非誘導弾であったため命中精度は低く、都市部へ撃ち込まれた場合が多くの市民を巻き添え殺傷した。さらに北ベトナム軍が国境である非武装地帯を越えて侵入した「テト攻撃の際には数千人の南の住人を殺害した」と三野正洋は『アメリカはなぜ勝てなかったのか』で書いています。私は三千人の民間人をテトで殺したという記述も見たことがあります。

現在のベトナム社会主義共和国は、この北ベトナムが解放戦線を操りながら、米国が撤退した後に反則みたいなやり方で赤化統一したものでしょう。いわば、民間人虐殺の犯人です。この犯人に対して謝罪などする必要があるわけがない。強いて言えば、ベトナム政府と韓国政府が共に、ベトナムの民衆に対して、「戦争の巻き添えで殺した人もいた。申し訳ない」と謝罪すべきです。繰り返しますが、ベトナム政府に対して謝罪などすべきではない。ベトナム政府もまた正犯人であり、民衆に対して謝罪すべきなのです。

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返信2年前
池田 優子 分けます。
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返信2年前
近藤 伸生 準備も間に合わないし、この場にふさわしいとも思いませんのでここでは詳細を書きませんが、今のヴェトナム政府がヴェトナム民衆虐殺の犯人などというのは、驚きです。ヴェトナム戦争についての本質と具体的事実からかけ離れた議論です。勿論、戦争はあらゆる市民を殺害し犠牲とするもので、正しい戦争など無いと考える私ですが、アメリカ軍や韓国軍、南ヴェトナム軍の行ったことについては数々の記録があり、これに対して、北ベトナム政府軍と南の解放戦線らが、住民虐殺したとの歴史事実を確認したこともありません。
過去の行為を誰に謝罪するかということは、国家に対しても、縁故の具体的市民に対して行っても、どちらもありうるものでしょう。
ともあれキム・ソギョンさん達の行動に私は支持の気持ちを持っています。

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返信2年前
掘家 泰弘 >北ベトナム政府軍と南の解放戦線らが、住民虐殺したとの歴史事実を確認したこともありません。< 確認したことが無いから無かった、と言われるつもりでしょうか?ベトナム戦争に関するベトナム側の記録には無いでしょうが、連合軍側の記録に存在しています。それは自分で調査すればいいと思います。現在図書館などでもいくつかは調べられるはずです。しかし現在の地球上で最も強い部類の情報統制国家であるベトナムからは、その証言などは出て来ないでしょうね。それが70数年前の日本の軍閥であろうと、共産主義国家であろうと一党支配というものは、国民の力が極端に弱くなり、政府による情報統制を可能にしてしまうものですから。
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康 昌宗康 昌宗さん、他5人が慰安所問題のメンバー、モデレーター、設定、投稿を管理しています。 堀家さんへ

>現在のベトナム社会主義共和国は、この北ベトナムが解放戦線を操りながら、米国が撤退した後に反則みたいなやり方で赤化統一したものでしょう。


アメリカの南北戦争も、中国の国共内戦も武力で統一されましたが、ベトナム以外の内戦の決着が「反則みたい」でないとすれば、その基準はなんでしょうか。
南側のベトナム共和国が、米国が撤退すればすぐに崩壊する脆弱な政権であったのではないでしょうか。

公式謝罪については、ベトナム政府側も被害者の記憶に蓋をしようとしているのですから、民間の活動を通して、社会の認識を変えていくことがより重要なんでしょうね。

韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題――戦争の記憶と和解
http://www.huffingtonpost.jp/.../historical-awareness_b...

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返信2年前
掘家 泰弘 まず第一に、米国が撤退する際のパリ協定において「停戦」が謳われたにも関わらず、北ベトナムは結局それを破って南ベトナムを攻撃したという反則がありました。康さんは「脆弱な政権」だと言いますが、それはそれで一つの事実ですが、相手が脆弱であるかに関係なく「停戦協定を破った」のは事実です。この手の嘘・謀略はベトナム戦争のつきものでした。なんせ最初から北ベトナムは武力で赤化統一する事を決めていたからです。ゆえに協定は守る気もなかったわけです。しかしそれが分かっているのは今日であって、当時の人々は「米国帝国主義者の侵略」であるという北ベトナム側の位置付けを信じていた。いや、今でもこの手の事を信じている不勉強な人は多いのでしょう。

この伊藤正子さんの記事もク・スジョン氏の『ハンギョレ21』の報道を吸収するところから始まっている。もう少し資料批判をして、その資料の性質をつかまないと。要するにどんな動機でベトナム政府がこの資料を出したかを推理してみることが重要なのです。それは国交は回復したが、経済発展力の点でまるでかなわない韓国に対して、精神的に優位に立つための手段です。韓国の人は大変な時代ですね。日本の右派に歴史戦を仕掛けられ、ベトナムからも歴史戦を仕掛けられており、北朝鮮はいまだに「朝鮮戦争は、韓米が仕掛けた」と言い張っている。全ての歴史修正主義に対する闘いが存在している。その全ての勝利しないと民族アイデンティティがボロボロになるでしょうね。ベトナムに話を戻すと、2003年にベトナム共産党は抗米戦争の総括を行ったが、彼らの口からは「常に正しい党の統一的な指導による輝かしい勝利」が語られ、民族解放戦線など最初から無かったように無視したという。(中野亜里『ベトナム戦争の戦後』)そういう思想統制されているところが意図的に出して来た情報なのだと理解しておくべきです。

<ベトナム戦争を簡単に振り返る>
1959年にはすでにホー・チミンを主班とする北ベトナム労働党は、南ベトナムの武力解放を決定していた。(小倉貞男『ドキュメントベトナム戦争全史』)つまり、最初から武力で征服するつもりで、解放戦線に物資と人員を送りそのテロを支援し、同時に宣伝活動を繰り広げた。ホ・チミン率いるベトナム民主共和国をソビエト連邦と中華人民共和国が国家承認し、援助を与えていた。これは共産化するための戦争だったのである。米国側は、北ベトナムと解放戦線を「ベトコン」と呼び、これを共産化されることから世界を守る戦争だと位置づけた。そして士気が最も高かったのが、朝鮮戦争の記憶を持つ反共的な韓国軍だった。1968年秋からアメリカ軍は、少しずつベトナムから撤退しはじめるが、韓国軍はその後もこの地に残って闘いつづけた。しかし、日本でも米国でも北ベトナムがつき続けた嘘を信じる人の方が多かった。共産勢力側は、「米国帝国主義者の侵略」であると位置付けていたからだ。今の日本とまったく同じようなことが世界的に起こっていたのである。人々は本当の事よりも、嘘を信じることを好む。そういう時代だった。
解放戦線、北ベトナム=善
南ベトナム、アメリカ=悪
の図式が造られた。

<長期に渡って唱えつづけられた嘘>
A、南ベトナム民族解放戦線議長のグエン・フートは、インタビューに答えて「私は共産主義者ではない」といい続けた。(『アメリカはなぜ勝てなかったか』P120)解放戦線は「民主、独立、中立」を叫んだが、実際には共産化に向かってまっすぐ進んでいた。

B、北ベトナムのホ・チミンは、「独立と自由より尊いものはない」という魅力的な言葉を述べ、1968年、ホ・チミンの跡を継いだ北ベトナムのファン・バン・ドン首相は、「我々が軍事力を用いて南を強引に併合などといった、そんな馬鹿げた、そして犯罪同様なくわだてを持っていると思って欲しくありません。」とまったくの嘘を述べていた。(『アメリカはなぜ勝てなかったか』P13)その”犯罪同様のくわだて”を数年後には実行している。

C、徳岡孝夫が『ベトナム戦争忘れていいのか』の”まえがき”で、「日本の知識人も新聞人もこぞってベトナムに熱烈な拍手を送っている」と書いているように、日本のあらゆるメディアがこうした嘘を信じ込んだ。例えば1965年、2月9日の読売新聞社説は、「ベトナム不拡大望む」の見出しで、「ベトコン勢力の源泉はベトナム民族主義だ」と盲目的な意見を述べている。やがて生まれたベ平連は、全共闘などと連携して七万人を集める反戦集会を行ってみせたが、北ベトナム側の宣伝を信じ込み、米国をターゲットにした反戦運動を繰り広げた。決して、共産主義者だけの集団ではなかったが、容共的であったし、北ベトナムとその背後のソ連が世界支配の野望をもってアジアに進出を狙っている事にはまったく無知であった。米軍の撤退を持って解散したという事実は、結局は、この団体にとっての「反戦」は「反米」であったと言えるだろう。そして米国内部でも北ベトナムの嘘を信じる人はたくさんいた。

D、共産側の「米国帝国主義者の侵略に抵抗する解放闘争」という嘘と日本の右翼勢力が使っている詭弁論説「あの戦争は欧米の侵略に抵抗する解放戦争であった」はよく似ている。詭弁というものは誰が造っても似た構造があるようだ。
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康 昌宗康 昌宗さん、他5人が慰安所問題のメンバー、モデレーター、設定、投稿を管理しています。 堀家さんへ

北ベトナム側は旧宗主国と戦ったパルチザンが中心の政権で、旧宗主国のフランスに作られたのが、南ベトナムであったのだから、「最初から北ベトナムは武力で赤化統一する事を決めていた」として、外国(植民地を持つ大国)が干渉してくることに正義はないと、北ベトナムの指導者は思ったのではないでしょうか。


私の母方の祖母は、韓国・慶尚北道から1930年代に祖父と一緒に日本に来ましたが、祖母の弟たちは中国の延辺に移住しました。
祖母の弟のうち一人は、朝鮮人部隊として中国共産革命に参加し、革命成功後に朝鮮人部隊は毛沢東から、次は朝鮮の革命を成就させる番だとの言葉を直にもらったそうです。国共内戦に参加していた朝鮮人部隊は実践経験が豊富で、朝鮮戦争でも重要な役割を果たしたと聞きます。祖母の弟も朝鮮戦争でも活躍し、戦争終了後は英雄として平壌で幸せに暮らしました。中国の内戦に直接介入しなかったアメリカは、朝鮮では国連の力を利用して内戦に直接介入しましたが、朝鮮の指導者たちは、アメリカに正義はないと思っていたのではないでしょうか。(※朝鮮戦争については、ブルース・カミングスが「朝鮮戦争の起源」で、1950年の開戦以前から既に南側では、アメリカの軍政の失敗により内戦状態であったことが詳細に分析された著書があります。和田春樹氏などはカミングスの起源説に批判的ですが、朝鮮戦争研究でカミングスが果たした役割の大きさは認めていると思います。)

私は別にマルキシストではありませんが、ベトナムが「赤化統一」されたことは、ベトナムの人々の意思の結果であったと思います。今の朝鮮半島で武力が用いられることはあってはならないことですが。
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掘家 泰弘 康 昌宗さん 慰安婦問題では実証的な歴史観を持っている康 さんが、こと北ベトナムについては、まったく立証することを怠りながら、「外国(植民地を持つ大国)が干渉してくることに正義はないと、北ベトナムの指導者は思ったのではないでしょうか。」と想像を述べる理由は何でしょうか?もしそう思われるなら、歴史事実と論理を組み合わせ、説得力のある話をしてください。まったく説得力の無い想像を話されても、納得する訳がありません。「ベトナムが「赤化統一」されたことは、ベトナムの人々の意思の結果であったと思います」であるなら、どうして10万~30万人だというボートピープルが生まれたのでしょうか?彼らは思想キャンプに入れられそうになったので逃げたとか話していました。現在ベトナムは、報道の自由度が非常に低い国です。報道が統制されるという事は、統制しないとヤバい情報が出てくるからです。安倍や自民党が一生懸命、報道機関に圧力をかけているのは、圧力をかけないと批判されまくるからです。しかしベトナムはもっと病んだ国でしょう。一党独裁は民主主義ではありません。
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康 昌宗康 昌宗さん、他5人が慰安所問題のメンバー、モデレーター、設定、投稿を管理しています。 ベトナム戦争の評価については今後はお互いに学ぶ考えていくとして、韓国軍がベトナムの地で民間人を虐殺したことは確かなのですから、被害者への謝罪と賠償、歴史教育がなされていくべきだと思います。
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掘家 泰弘 それは上で述べているように否定しませんが、韓国政府がベトナム政府に謝罪するような形にはすでに反対しています。
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康 昌宗康 昌宗さん、他5人が慰安所問題のメンバー、モデレーター、設定、投稿を管理しています。 ベトナム戦争、ベトナムの歴史について、堀家さんは下記書籍の著者・中野亜里さんを賛同される立場に近く、私は徐京植さんや書評者を賛同する立場に近いと思えました。ベトナムの関連書籍は私もあまり読んでいないので、今後もっと学んでいこうと思います。

中野亜里.『ベトナムの人権―多元的民主化の可能性』福村出版,2009年,466p.伊藤正子

https://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/.../no_1001/AA101_4_BR.pdf

『評者が違和感を抱いたのは,第一の「ベトナム革命とは何であったか」という問いについてである.誤解を恐れず簡略化すれば,ベトナム革命は「民族独立」闘争であったか,ただのイデオロギー闘争であったのかという古くて新しい基本的認識の部分である.著者の観点は後者であり,それは先の現在のベトナムの政治体制を特徴づける歴史的要素①から④の中に,アメリカが介入したためにベトナム戦争が始まったという視点が全く示されていないことからもわかる.

ベトナムの戦ってきた長い戦争がフランスの植民地支配と,植民地なき帝国であるアメリカの横暴な支配に対する抵抗戦争であった,という基本的な認識が,現政府の強権政治を批判するあまり,著者のベトナム戦争観からいつの間にか抜け落ちてしまっている.

評者も,革命の過程でベトミンにも過った行為があったことや,現国家のあり方が社会主義の理想から大きく乖離し抑圧的になっていることをもちろん否定しないが,それをもってベトナムの反植民地戦争,民族独立戦争の歴史的正当性が失われるものでもやはりないと考える.著者の捉え方には,ベトナム戦争がどのような世界情勢の中で行なわれたのか,植民地支配に抵抗して独立を求めた人々の最後の熱い戦いであったという人類史における位置づけへの視点が欠けているといわざるを得ない.

韓国の朴正煕政権下で二人の兄が国家保安法容疑で逮捕されその救援活動と韓国民主化運動に携わった徐京植は,同じ中野の著作[中野 2005]を評して,以下のように述べている.

「(同書は…評者注)新しい世代の研究者たちが抗米戦争終結と南北統一後におけるベトナムを論じた論集であり,現在のベトナムが抱える諸問題について学ぶところが少なくないが,筆者の一人(中野執筆分…評者注)による次の記述は,強い疑問を覚えた.『ベトナム革命に共感を寄せる日本人は,ベトナム人の上にアメリカ帝国主義の犠牲者の姿を見出そうとする.しかし,戦時中と戦後の混乱期の犠牲者の76%は,ベトナム人どうしの殺し合いによるものだという数字もある[BuiTin 2003].外国軍による残虐行為に正当化の余地はない.しかし,ベトナム人が同じ民族の多様な思想・心情を排除し,単一のイデオロギーで強権支配を行ったことは,外国の敵の侵略よりも大きな民族的悲劇と言えるのではないだろうか(p. 57)』.

この筆者は,はたして植民地支配というもののシンプルな本質を理解しているだろうか? 帝国主義はいつでも,解放勢力との闘争を『おなじ民族どうしの殺し合い』という形式で遂行しようとするものだ.ベトナム戦争こそ,その好例である」[徐 2006: 89].

本書において評者が疑問を覚えたのは以下のくだりであり,その疑問は上記の徐の指摘と同質のものである.

「わが国では,ベトナムについて『民族解放』と『社会主義』という『神話』ができ上がっている.つまり,正義の民族解放勢力が悪のアメリカ帝国主義に勝利し,アメリカとその傀儡政権から南部を解放し,民族を統一して社会主義国家を建設した,という非常にわかり易い勧善懲悪のストーリーである.しかし,そのわかり易さのために,ベトナムに内在する深刻な諸問題が看過されてきた(あるいは無視されてきた)といえるだろう(p. 14).」「一つの民族が分裂して敵対し,一方が他方を強権的に支配したことから発生した人権侵害は,外国軍の攻撃より根の深い悲劇ではないだろうか(p. 425).」「ベトナムに内在する深刻な諸問題が看過されてきた」ことについては,まさにそのとおりである.

そのことについて,「責任はベトナムを研究する学者にもあるといわねばなるまい(p. 14.)」とする著者の指摘は耳が痛い.

しかし,現在ベトナムが深刻な諸問題を抱えていること,あるいはベトナム統一後に現政権の南に対する強権支配があったことを理由に,植民地支配・帝国主義に対するベトナムの戦い自体の正当性を否定し,「一つの民族が分裂して敵対し」たとして,ベトナム戦争を南北の内戦に矮小化することは,帝国主義的本質の変わらないアメリカの戦争の論理に追随することに他ならない.イラク戦争に言及するまでもないが,アメリカが「意に反する政府を倒すことを辞さない点では,紛れもない帝国としての相貌もそなえている」[藤原 2002: 24]ことを看過し,「『アメリカ』という自由の空間を外部に広げることは,内政干渉どころか自由の拡大であり,無謀な権力行使ではなく使命の実現だ」[藤原2002: 30]という介入の論理を追認することにつながるだろう.』

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近藤 伸生 賛成です。加えて、統一ベトナム初期の1982年、82年、83年当時に、頻繁にベトナムを取材し、またカンボジアに常駐してベトナムを行き来していた者としては、この当時に限ってのこととしては、ベトナム社会に、南に対する強権支配があったという認識は殆どありません。当時は、勝利者側の権力者の中に汚職・腐敗が蔓延し始め、ベトナム政府は著明な軍幹部でさえ、その処分を始めていた時代でした。また、戦後復興の社会的経済的そして精神的負担は大変重く、国際社会は十分な援助をできていなかったというのも実情でした。これ以上は、ここで論じませんが、中国や当時のソ連のベトナムへの内政干渉やアメリカをはじめとする国々の、ボートピープルを煽る宣伝などの中で、ベトナムは、当時驚くほど冷静に不安を持つ市民の国外脱出に対しても、許容していたというのが、当時の印象です。
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返信2年前
掘家 泰弘 >当時は、勝利者側の権力者の中に汚職・腐敗が蔓延し始め、ベトナム政府は著明な軍幹部でさえ、その処分を始めていた<・・・これは誰の粛清を指しているのですか?
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返信2年前
近藤 伸生 ボーグエンザップ将軍の周辺です。後に彼も、総括します。
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返信2年前
掘家 泰弘 まず現地に行ったから、何かを知ることができるというのが間違いだと思います。80年代というとあの北朝鮮に行った報道人も、社会党などの訪朝団も、飢えた人々や強制収容所に入れた人々を見ていないですよね。訪朝したから、そういう事を知るわけではないということです。むしろ情報統制国家では現地の報道に惑わされやすい。情報は統制されているからです。一党支配でありそれは民主主義ではなく独裁体制なのです。ちなみに広瀬隆の「赤い楯」によればソ連崩壊後のロシアの辞書に、スターリンばかりかレーニンも恐怖政治を行ったことが書かれているそうです。そういう情報も体制が崩壊しない限り出てこない訳です。ベトナムも今の体制が崩壊したら、どんな情報が出てくるか?まあ時間の問題ですね。
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返信2年前
近藤 伸生 掘家 泰弘 様 コメント有り難うございます。 別に、私はベトナムに限らず、現地に入ったら何でも真実が分かるなどとも考えていません。同時に、当地でしか得られないものもあるとも思っています。そして少なくとも自分自身が、ある出来事についての補助的な事実や間接的な事実を得て、自分として全体をどう理解できるかを検証しているにすぎません。おっしゃるとおり、後になって出てくるおどろおどろしい事がたくさんあるでしょう。それは出てきたら、受け止めればいいと思っています。砂川事件最高裁判決の歪みと田中耕太郎最高裁長官とアメリカの関係など、資料が開示されて、この日本という国は或いは時の政府は何という売国的な行動をとったのか、をこれでもかと痛感したように。
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返信2年前
掘家 泰弘 ベトナム戦争について考えるは、まず冷戦構造について考える必要があります。1945年、第2次世界大戦が終結した時から、米ソの対立が始まりました。ソ連は侵攻した北朝鮮を共産化したばかりではなく、ルーマニアなどの東欧諸国にまで侵攻し衛星国として共産主義国家化した。その他、あらゆる所で国際共産主義シンジケートに援助を受けた共産ゲリラにより、大使館ジャックやハイジャックがなされ、テロが活性化し、暴力革命が試みられていた。それが冷戦期の世界でした。
そしてひとたび血と暴力で共産化されると一党支配の下、その国には
強い言論統制がなされました。しかし言論の自由は人間の本質的要求なので、反発も当然強くなされ、強制収容所が大賑わいというのが共産国家の実態であります。ここで議論となるベトナムも思想改造を行うための思想キャンプがありました。
共産化された国では同時に大量の虐殺が引き起こされました。ソ連では3000万人~5000万人とも言われる粛清の犠牲者があり、中国は文化大革命での2000~3000万人、カンボジアのポルポトは全国民の4分の1に当たる200万人を粛清、殺害したといいます。これほど大量の虐殺は第2次世界大戦での犠牲者を優に上まるものです。そしてこのような言論統制と内部粛清(虐殺)こそ、共産主義の性質を著わしている。理想の世界ができるような事を言っていたマルクスだが、それは最初から嘘であったというのが共産主義の実態でしょう。そのため米国を中心とした西側諸国はこれに対していた。
ボルシェビキ革命の時代から米国議会はその革命の残虐さに眉をひそめていた。もちろん米国自身も麻薬の蔓延などの病弊をもっていたわけですが、国家権力が鉄のカーテンをひいて情報統制したり、収容所に放り込んで思想改造し、あるいは虐殺するほどの大きすぎる規模の病弊は無かったからです。共産主義とは、開祖マルクスが述べたようにまさに妖怪に他ならなかった。この妖怪は世界を赤化しようと狙っていた。コミンテルンの目的は、いうまでもなく世界共産主義革命でした。
こうした時代にベトナムでも、代理戦争が引き起こされたのでした。それは冷戦の1局面なのです。
さて今日のベトナムがそれほど大きな危険があるとは私は思っていません。冷戦は終わったからです。しかし、「ベトナム戦争は米の帝国主義からの解放戦争」などという理解は事実として間違っているのです。1990年ごろからの米国のエゴには私も批判的ですがね。

こうした認識に対して、現在でも存在する共産主義信奉者およびにまったく警戒心に欠いている容共主義の方からは反発を受けるでしょうが、それはそれだけの事です。
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2016年6月5日日曜日

毎日の『慰安所従業員:日記』関係記事

「慰安所従業員:日記発見 慰安婦の日常、淡々と 募集の時期は欠落」2013/08/07(毎日新聞)

http://mainichi.jp/select/news/20130807ddm007040157000c.html 2013年08月07日


$大友涼介です。


<引用開始→

=== 関連記事 =====

「『慰安所従業員日記』の新事実」週刊ポスト2013/09/20・27号 http://amba.to/1fNDPCk

「慰安所従業員:日記発見 慰安婦の日常、淡々と 募集の時期は欠落」2013/08/07(毎日新聞)http://amba.to/1aXkyjY

「強制連行朝鮮人の賃金か 貯金通帳数万冊を無断保管」2013/09/08(東京新聞)http://amba.to/15FzH2v

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【ソウル澤田克己】ビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、日記を残した朝鮮人男性は、1942年夏から44年末までの東南アジア滞在中に慰安所3カ所の帳場で働いた。日記には、慰安婦の管理や、軍や役所との折衝といった日常生活が淡々とつづられている。

慰安所が旧日本軍の管理下にあったことは、軍の文書でも確認されている。日記にも「慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた」(43年1月1日)や、連隊本部などから定期的に避妊具を受け取ったりしたという記述が、頻繁に見られる。

軍から移転命令があり「慰安婦一同は絶対反対」(同3月10日)したが、結局は「司令部命令に勝てず移すことになった」(同14日)などの記述から、軍との密接な関係をうかがわせる。

日記の著者は、ビルマ西部の要衝アキャブ(現シットウェ)からラングーン(現ヤンゴン)へ移った。その際、軍から宿舎の提供を受け「火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って」(同年1月21日)もいる。

日記を発見した安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授は「軍属に準じる扱いを受けていたようだ」と話す。

日記からは、前線であるビルマと後方地域のシンガポールとの違いもうかがえる。シンガポールでの日記には、慰安婦の「廃業」や「帰国」に関する記述が多く出てくるが、ビルマではそうした記述は見られない。

著者はシンガポール在住時の44年10月25日、元慰安婦が結婚したので「知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われた」という。

ビルマでは既に日本軍が敗走を重ねていた時期で、連合軍の尋問調書などによると、多くの慰安婦が巻き添えで犠牲になっていた。

一方、日本軍は、定期的に慰安婦を検診し、性病にかかった場合は入院させた。日記にも「検査不合格者が6人も入院した」(44年5月12日)などという記述が多く見られる。「妊娠7カ月なので、休業届を提出した」(同7月4日)というケースや、慰安婦の出産(同9月5日)もあった。

日記には、朝鮮における慰安婦募集に関する記述はない。日韓両国では朝鮮半島で慰安婦を集めるときに強制連行があったかどうかに強い関心が持たれているだけに、安名誉教授は「この時期の日記が欠落しているのは残念だ」と話す。

ただ、米外交問題評議会のジェイムス・リンゼイ上級副会長は毎日新聞に対し、米国で慰安婦問題への批判が強い理由について「女性への性暴力が大きな政治的関心を呼ぶようになった世界的な流れが背景にある」と指摘。強制連行の有無は大きな論点ではなく、慰安婦という制度そのものへの向き合い方が問題視されているとの認識を示した。

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◆慰安所従業員の日記 抜粋

◇1943年

1月 1日 ビルマ国アキャブ市(現シットウェ)の慰安所、勘八倶楽部(くらぶ)で起きて、宮城(皇居)に向かって遥拝(ようはい)した。家内の弟と○桓君は、<慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた。>

1月 2日 昨日は元日で休業し、今日から慰安業を始める。

1月 9日 今日の検査の結果、病気だった○千代と○子の2人が不合格で、その他16人はみんな合格だった。

1月12日 連隊本部へ行き、慰安婦の収入報告書を提出した。

1月13日 連隊本部医務室から衛生サック(コンドーム)1000個を持ってきた。

1月16日 午後6時ごろ連隊本部事務室で、数日前に頼んだラングーン(現ヤンゴン)への出張証明書をもらった。

1月18日 同行の友となった中村上等兵と兵站(へいたん)へ行って朝飯を食べ、某少尉の案内で彼の部隊へ行って寝食をすることにする。某少尉も同行してラングーンまで行くという。

1月21日 ビルマ国タンガップの<火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って、午前11時にタンガップを出発した。>

1月25日 横浜正金銀行ラングーン支店で3万2000円を貯金した。

1月29日 朝鮮から一緒に来た野沢氏に会った。マンダレーの方で慰安所をしていたが、今は、部隊の移動に従ってプロメーに移り、営業しているという。

3月10日 <55師団から、マンダレーに近いイェウーに移転しろという命令が(ビルマ国ペグー市の)金川氏の慰安所にあった。慰安婦一同は絶対反対ということだった。>

3月14日 <金川氏は司令部命令に勝てず、慰安所をイェウーへ移すことになった。>

3月16日 金川氏は、師団連絡所からイェウー方面への移動を当分の間、中止すると言われた。

4月 5日 桜倶楽部の慰安婦、○子は腹部がとても痛み、午後、開腹手術をするのだという。○子は昨年、マンダレーにいた時も盲腸炎で手術をした。

6月 2日 (ラングーン市外)インセインの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。正金銀行に行って、村山氏の慰安所の慰安婦2人の貯金をした。

6月20日 光山氏は、今回の慰安婦再編で、夫人を連れて帰国するそうだ。

6月25日 大石氏も今般、慰安婦募集のため帰国するという。

7月10日 <昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した日だ。もう1年になった。>

7月16日 村山氏の慰安所の慰安婦だった○子は妊娠7カ月で、胎動異常があり、今日、鈴木病院に入院したが流産だった。

7月17日 昨日、鈴木病院に入院した○子は流産後の経過が良好で、今日、車で帰ってきた。

7月19日 <インセインにいる高部隊すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が、兵站管理に委譲された。>

7月20日 村山氏経営の慰安所、一富士楼が兵站管理となり、村山氏と新井氏は兵站司令部に行ってきた。

7月26日 インセインの慰安所2カ所が兵站管理になった後、慰安婦の検査も兵站の軍医がすることになった。

7月29日 <村山氏の慰安所の慰安婦だったが、夫婦生活をするために(慰安所を)出た春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになったという。>

7月30日 村山氏は8月中に帰郷する考えなのだが、もち屋と慰安所を私に引き受けろという。承諾した。

8月 8日 金川氏も慰安所を他人に譲渡して帰国するという。

8月10日 ラングーンの翠香園で慰安所組合会議に出席した。組合費として経営者は30円、慰安婦は1人2円で計62円を払った。

8月11日 近日は慰安所に来る客が少なく収入もとても減少した。

8月12日 兵站司令部に行って営業日報を提出し、サック400個を受け取った。

8月13日 <鉄道部隊で映画があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた。>

8月19日 兵站司令部で、サックを600個受け取った。

8月24日 村山氏が、一富士楼慰安所を9月まで自分が経営して10月初めに引き渡すというので、それではだめだと言った。

8月26日 兵站司令部で5日間の日報を提出し、サック800個を受け取った。

9月9日 ペグーの金川氏も今日、慰安所を他人に譲渡する契約を締結した。

(この後、筆者はシンガポールへ移動する)

12月 3日 ラングーンで慰安所を経営していた金田氏は去る7月初めに慰安婦を募集するため朝鮮に行った。そして今回、慰安婦25人を連れてビルマへ行く途中でシンガポールに到着した。

◇1944年

2月 1日 今日出発する帰国慰安婦5人を送り出した。

3月 3日 慰安婦、○子とお○が廃業した。3月31日 慰安婦、真○を連れて特別市保安課旅行証明係に行き、内地帰還旅行証明願を提出させた。

4月 5日 帰郷する慰安婦、お○と○子は明日の乗船券を買った。共栄倶楽部の慰安婦、尹○重(○子)も明日出発だ。

4月 6日 <生鮮組合に行ったところ一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が働いていた。お○と○子、共栄倶楽部の○子を見送ってきた。>

4月12日 特別市支部へ行って、金川○玉と島田○玉の2人についての内地帰還旅行証明書を受け取った。

4月13日 特別市警務課に行き、真○の内地帰還についての移動届を提出した。南方運航会社に行って、真○、島田○玉の2人の乗船を申し込んだ。

4月14日 西原君と横浜正金銀行の支店に行き、今般帰郷した李○玉と郭○順への送金をした。

4月15日 慰安婦募集のため朝鮮に帰った大洋倶楽部の主人は来る7月に京城(現ソウル)から出発する予定だと西原君に電報が来た。

4月18日 スマトラ・パレンバンからシンガポールに来て、菊水倶楽部が慰安婦として抱え入れることになった金○順の就業許可のため特別市警務部保安課に行ってきた。

4月30日 今日も軍人の外出が多く、昨日の最高収入をはるかに超過し、2590円余りの最高記録だった。

5月 9日 金○順と崔○玉の稼業婦としての就業が許可された。

5月12日 <今日、検査不合格者が6人も入院した。>

5月26日 昨年9月ごろ、菊水倶楽部からティモール島方面へ行った李○梅という女が今日、シンガポールに帰ってきたと訪ねてきた。

5月31日 正金銀行に行き、金川○玉の送金許可申請を提出した。

6月 1日 中央電信局に行って、金本○愛と李○梅の2人に頼まれた電報を出した。

6月 2日 今日の検査で2人が不合格となって入院したので、今までの入院者まで入れて計5人が入院中だ。

6月 5日 金川○玉と島田○玉の2人は、今朝8時に出発した。

6月 9日 今日の検査結果は、入院中の2人が退院し、2人はそのまま入院。店にいた女たちは全員合格した。今月から女子はたばこ配給がないのだが、稼業婦に対しては接待用として特別に毎日10本の配給がある。

6月13日 4月に帰還した郭○順にすぐ送金したのだが、まだ受け取れていないと2回も電報が来た。

6月17日 新しく入った宋○玉のことで特別市保安課営業係、坂口氏のところに行ってきた。稼業婦特配米を受け取った。

6月23日 帰郷した金川○玉から到着したから送金しろという電報が来た。

7月 4日 <慰安稼業婦、許○祥(○江)は妊娠7カ月なので、休業届を提出した。>

7月27日 正金銀行に行って、慰安婦の貯金をした。

8月31日 今年4月初めに帰郷した共栄倶楽部の稼業婦、尹○重から無事帰還したというはがきが届いた。

9月 5日 <倶楽部の稼業婦、許○祥(○江)は妊娠中だったのだが、中央病院に今夜入院し、23時半ごろ男児を無事に出産した。>

9月 6日 保安課営業係に金○愛の廃業同意書を提出し、証明を受け取った。

9月28日 正金銀行に行って、稼業婦の貯金をし、南方運航会社に行って金○先と金○愛の2人の内地便船の申し込みをした。

10月14日 病弱のため帰郷を決心した。

10月25日 スマトラのパレンバンからシンガポールに来た宮本と<第一白牡丹で前は慰安婦をしていた今の仲居が今般結婚した。今夜、両国食堂で知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われたので行った。>

10月26日 今般帰郷する金○愛の送金許可申請書を提出した。

10月27日 <慰安婦、金○先に頼まれた送金600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った。>

11月 9日 横浜正金銀行シンガポール支店に行って、慰安婦の貯金をした。

11月15日 稼業婦、金○愛は今日、内地に帰還する船に乗った。

11月16日 特別市保安課営業係に行き、帰国した金○愛の酌婦認可書を納付した。

11月22日 仲居、李○鳳と稼業婦、金○守の2人の旅行証明をもらってきた。南方運航会社で2人の乗船申し込みをした。

11月24日 正金銀行に金○守の送金許可を申請し、中央郵便局で李○鳳の送金をした。

12月 4日 正金銀行に行き、送金許可された金○守の1万1000円を送金してあげた。

12月16日 横浜正金銀行に行き、許可された3万9000円を送金し、検疫所に行って検疫証明書をもらった。13時ごろ稼業婦のみんなと別れのあいさつをして停泊場に行き、手荷物検査を終えて17時ごろ乗船した。

(注)日記は、慰安婦のことを「稼業婦」「酌婦」などとも記している。慰安婦らの名前の一部を伏せ字とした。「横浜正金銀行」は、1880年開業の外国為替取扱銀行。日記では単に「正金銀行」とも書かれている。東京銀行の前身で、現在は三菱東京UFJ銀行となっている。<>は記事と関連する部分。

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■ことば

◇軍票と戦時中の郵便貯金

軍票は「軍用手票」の略語で、軍の物資調達などのために一時的に使われる通貨。日本も第二次大戦中に約45億円分を発行したが、終戦後に無価値となった。戦時中はビルマ(現ミャンマー)などの戦地に野戦郵便局、朝鮮半島などの植民地や占領地に外地郵便局が設けられ、軍人や現地住民らが貯金に利用した。

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http://megalodon.jp/2013-0809-1331-13/mainichi.jp/select/news/20130807k0000m040125000c.html

慰安所:朝鮮人男性従業員の日記発見 ビルマなどでつづる

毎日新聞 2013年08月07日 07時00分(最終更新 08月07日 15時56分)

昭南博物館のスタンプが押された日記
昭南博物館のスタンプが押された日記
 【ソウル澤田克己、大貫智子】第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、その様子をつづった朝鮮人男性の日記が、韓国で見つかった。男性は、1942年に釜山港を出発した「第4次慰安団」に参加し、44年末に朝鮮へ戻った。慰安所従業員の日記の発見は、日韓で初めて。旧日本軍による従軍慰安婦問題では、数十年たってからの証言が多いが、現場にいた第三者による記録は、冷静な議論をする上で貴重な資料と言える。
 朝鮮近代経済史が専門で、慰安婦問題にも詳しい安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授が見つけた。約10年前にソウル近郊の博物館が古書店で日記などの資料を入手。これを安名誉教授が最近精査し分かった。堀和生京大教授と木村幹神戸大教授が、日本語訳の作成を進めている。
 日記は、朝鮮半島南東部・慶尚南道(キョンサンナムド)出身の男性が、ビルマとシンガポールの慰安所で働いた43、44年に記した。漢字やカタカナ、ハングルで書かれている。
 男性は05年生まれで79年に死去。22年から57年までの日記が残る。ただ、朝鮮で慰安婦募集に携わった可能性のある42年を含む8年分は、見つからなかった。
 男性は、43年7月10日に「昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した」と記述。44年4月6日には「一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が(市場で)働いていた」と書いた。
 ビルマで捕らえた慰安所経営者を米軍人が尋問し45年11月に作成した調査報告書には、42年7月10日に慰安婦703人と業者約90人が釜山港を出港したとの記録がある。釜山出港の日付が一致し、日記の正確性を裏付ける。
 安名誉教授は「米軍の記録が第4次慰安団を指すのは確実だ。慰安団の存在は、組織的な戦時動員の一環として慰安婦が集められたことを示している」と指摘する。ただ、安名誉教授は、韓国で一般的な「軍や警察による強制連行があった」という意見に対しては、「朝鮮では募集を業者が行い、軍が強制連行する必要は基本的になかったはずだ」との見方を示した。
また、日記には「航空隊所属の慰安所2カ所が兵站(へいたん)管理に委譲された」(43年7月19日)、「夫婦生活をするために(慰安所を)出た春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになったという」(同29日)などと、慰安所や慰安婦と軍の関係が記されている。
 一方、「鉄道部隊で映画(上映)があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた」(43年8月13日)、「慰安婦に頼まれた送金600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った」(44年10月27日)など、日常生活の一端がうかがえる内容もあった。

 ◇従軍慰安婦問題

 第二次大戦中に日本が支配した植民地や占領地などから女性が慰安所に集められ、日本の将兵から性的被害を受けたとされる問題。1990年に韓国の女性団体が日韓両国に真相解明や謝罪、補償を求めたのをきっかけに社会問題化した。日本政府は93年8月、慰安所設置や慰安婦移送に旧日本軍が直接、間接に関与したことを認め、「軍の関与の下に女性の名誉と尊厳を傷つけた」と謝罪する「河野談話」を発表した。ただ、女性の連行段階での軍の関わりについては、第1次安倍内閣当時の07年、「政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」という答弁書が閣議決定された。



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慰安所従業員:日記発見 識者に聞く

毎日新聞 2013年08月07日 東京朝刊

http://mainichi.jp/select/news/20130807ddm007040182000c.html

◇募集、「広義の強制」示す--安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授

--日記から分かることは何ですか?

◆慰安婦703人の「第4次慰安団」が組織されていたことだ。慰安婦募集が、日本政府の政策に基づく戦時動員の一環だったことを示している。「広義の強制」だといえる。

--強制連行?

◆「狭義の強制」と言われる、拉致のようなものはなかっただろう。業者をサポートする行政組織がしっかりしている朝鮮では強制連行の必要はないし、強制連行は(社会的な騒ぎを起こして)コストが高くなる。ただ、業者による乱暴な行為はあったはずだし、軍服のような服を着た業者が「軍人」と誤解された可能性はある。

--どんな女性たちだったのでしょう?

◆米軍調書によると、大部分は教育のない貧しい女性で、売春経験者は一部だけだ。親に売られた人身売買も多かっただろう。

--戦場での位置づけは?

◆ビルマのような最前線では、前借り金を返済しても簡単に廃業できなかった。所属部隊の管理を受けており、旧日本軍の編成の末端に位置づけられていた。「性的奴隷状態」にあったと言える。

--慰安婦問題に取り組んだ契機は?

◆1990年代初め、慰安婦支援団体が実施する調査活動などを手伝った。だが、「強制連行」と最初から決めつけて証言集めをするような形だったので、運動からは手を引いた。【聞き手・澤田克己、大貫智子】