2020年2月25日火曜日

朝鮮人強制連行ーー労務動員を整理する ①危険な職場・炭鉱と強制動員資料



朝鮮人強制連行ーー労務動員を整理する ①
      1、 危険すぎる職場「炭鉱」
炭鉱での採炭は非常に危険な職場であって、張り巡らされた地下道に降りねばならず天井が
落ちて来る落盤事故、水害、岩粉などによる「じん肺」病、ガス中毒、炭塵への引火と全焼
火災、ガス爆発など死亡事故やケガと隣り合わせの仕事であった。
1939年から45年までの北海道の炭鉱のガス突出あるいは爆発事故だけでも、約14件を数え
る。その中には死者177人を数えた1941年の三菱美唄炭鉱ガス爆発や死者109人を
数えた三菱美唄炭鉱ガス爆発が含まれている。もちろん負傷者も大量に出ている。
①
(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』
p222より)
イウヨン氏は炭鉱が1930年代には機械が導入されたと述べているが、必ずしもそれは、事故の
減少に繋がらない。かなり機械化して安全も考えられていた戦後の炭鉱でさえ、事故だらけな
のである。この表の中で何度もガス爆発事故を起こしている北炭(北海道炭鉱汽船株式会社)
は、戦後も1960年、65年にガス爆発、68年に坑内火災で、計135人が死んでいる
(『全記録炭鉱』鎌田慧p42)。
大量の石炭を運搬するために、三池炭鉱にベルトコンベアーが本格的に導入されたのは1936年
だが、乾燥した場所ではゴム製ベルトは燃えやすく簡単に火が付き、火災が発生したという
(『閉山』p29 奈賀悟)
戦時中はここにさらに別の危険が追加された。日中戦争が始まると国は企業に石炭の増産を
命じたが、三菱美唄炭鉱ではその割り当てを達成するために、安全性を無視してドベラ(坑
道の側面)を削るように指示が出た。また発破3本ごとに散水して炭塵を防止することになって
いたがこれを無視して7,80本も連続して発破をかけたため作業場は炭塵がもうもうと
立ったという。切羽の天盤が下がって支柱がみしみし鳴っている中でも作業は続けられた。
(前掲『北海道と朝鮮人労働者』p256~261)

田川警察署特高主任であった満生重太郎はこう述べている。「炭鉱では普通でも坑内事故が
多いのに、戦争の末期になると資材が欠乏して坑木さえ手に入らなくなった。落盤事故など
でケガする朝鮮人が多くなりましたからね。・・・保安を手抜きする小さい炭鉱ほど死亡率
が高かったですよ」(『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだい「豊洲炭坑」p223)

麻生商店愛宕炭鉱労務係・野見山巍はこう証言している。「朝鮮人はほとんど坑内で働きま
した。戦時中は無理な掘り方をしたので落盤事故で犠牲者がずいぶん出たですな」
(『朝鮮人強制動員関係資料1』「東北地方朝鮮人強制連行真相調査団聞書 福島県山形
県関係」57)

ノルマ達成のため、15時間を超える労働も当たり前であり、『戦争を知らない世代へⅡ㉑佐
賀編 強制の兵站基地 炭坑・勤労報国・被爆の記録』p115、など複数の日本人の証言も
ある。
1944年、三菱美唄炭鉱の大爆発では、109人(内氏名が確認された朝鮮人71人)が死んでい
るが、その責任は一体どこにあるのだろうか?
②
(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』
p255より)災害回数のピークは1944年、死者数も断トツに多い。
③
(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』
p222より) 変死や病死の中にはリンチ殺害が含まれている
炭鉱における朝鮮人の死因の8割以上が事故死である。こうした炭鉱の危険さや納屋制度の
暴力性、それに引き換え賃金の安さなどの悪条件は戦前からよく知られていたので、炭鉱
は万年の人手不足に陥っていた。朝鮮の人達が大量に戦時動員されたのはそういう仕事だ
ったのである。

*貝島大之浦炭鉱が、朝鮮納屋を廃止したのは、1940年。納屋頭は労務係となった。
(『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだいp71)

       2、望まぬ職場に連れていかれるということ
「監獄部屋」の異名をとっていた炭鉱、鉱業の3K職場は、労務動員がはじまる1939年よりも
以前から人手不足であり1937年10月警察当局は、朝鮮人求職者が炭坑の求人に応じようとし
ないことを報告し、内務省は労働条件の改善を炭鉱経営者に要請していたが、改善されるこ
とはなかったという。
(労働科学研究所「炭鉱における半島人労務者」/『朝鮮人強制連行』p37外山大)

元日炭高松炭鉱の労務係長・野村勇は、炭鉱の募集について「炭鉱というところは非常に危
険な職場で、他の産業に比べて集まりが非常に悪く、呼びかけても敬遠されました」と述
べている。(『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだいp485)
一方、内地の炭鉱が、朝鮮人を連れてきて安い賃金で酷使したことは、総督府も知っていた
(『朝鮮日報』1937-6-27/『朝鮮人強制連行』p35外山大)
労務動員された朝鮮人が連れていかれたのは、6割以上がその3K職場炭鉱であり、待ってい
たのはタコ部屋的な酷い扱いだった。金賛汀の裁談した『証言 強制連行』p15-16の慶尚北道
に住んでいた金達善の話によると、1941年ころになると募集に応じた人の手紙もあり 「死ぬ
ほどつらい思いをする」という噂が流れていて、「日本に行きたいという人はほとんどいなく
なっていた」という。 
1939年、朝鮮半島に旱魃が襲い、不作だったので生活に困り、労務動員に喜んで応じる人も
いたがすぐにその波は終わり、労務動員計画初年度がはかばかしくない状況に、石炭業界が
厚生省を通して圧力をかけ、1940年3月26日朝鮮総督府は『昭和15年度労務動員計画設定に
至る迄の募集による朝鮮人労務者の移住に関する件』を出させた。これによると「特に石炭
産業に」「内地及樺太移住に関し」「動員計画促進の措置を講ずるものとする」となっている。
(前掲『北海道と朝鮮人労働者』p52~53より)
こうして「促進」された労務動員ではあったが、成績は依然はかばかしくなく、一方では密
航や縁故渡航は増加した。そこで総督府警察は密航の取り締まり強化に動いた。
 合法的な縁故渡航者が選んだ職場の75%は、工場に集中し、17%が土木建築、炭鉱・鉱山
は合わせてもわずか、8%に過ぎない。朝鮮半島の人々にとって炭鉱・鉱山がいかに人気が
ない職場であるかが次の表から分かる。


④
      (前掲『北海道と朝鮮人労働者』p55より)
            
          3、動員時における強制・拉致
労務動員は、39年9月からの募集に始まったがすぐに壁にぶつかった。そこで42年からはよ
り官憲の関与を深めた官斡旋が始まった。それもまた抵抗が激しくなりノルマを達成するの
が難しくなったので、44年9月からの徴用がはじまった。こうして最初から政府の労務動員
計画にはじまった動員だが、官憲の関与が深まるにつれ強制性も強まり、夜襲、誘出、人質
的掠奪拉致がなされるようになる。こうした動員の実態には様々な資料と証言がある。

動員時の強制資料1)
例えば、鎌田沢一郎 カマダ サワイチロウ(元宇垣総督政策顧問、当時総督府機関紙「京城
日報」社社長)は「もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、
朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。納得の上で応
募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、
突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなく
それに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たす
といふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻
息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。」(鎌田沢一郎『朝鮮新話』1950)
と南次郎総督時代の事を書いている。「寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラッ
クを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込」
んだというのだ。
*(南次郎 第七代総督=1936年(昭和11年)8月5日~1942年(昭和17年)5月29日)(小磯國
昭 第八代総督= 1942年(昭和17年)5月29日 ~1944年(昭和19年)7月22日)(阿部信行 第
九代総督=1944年(昭和19年)7月24日 ~1945年(昭和20年)9月28日 )
これに対して、鄭大均氏は「この下りは強制連行論者によく引用される箇所ではあるが、傍線部
分が引用されることはまずない(たとえば後述する『朝鮮人強制連行の記録』70頁)」と朴慶
植を名指しで批判している。 (鄭大均 『在日・強制連行の神話』p112)
「引用される箇所」というのは上記「総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の
鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけた」の部分である。
しかしこれは、引用しなくても特に問題があるとは思えない。なぜならすでに複数資料によって
総督府の官僚が決して無罪でないことは明かだからだ。
例えば、総督府鉱工局労務課事務官の田原実は「半強制」を認識していたばかりではなく、
「なおも強化する」ことを述べている。

動員時の強制資料2)

朝鮮総督府鉱工局労務課事務官の田原実は、同じく朝鮮総督府の文書課長であった山名酒喜男や
朝鮮無煙炭労務主任今里新蔵らも出席する座談会で、
「従来の工場、鉱山の労務の充足状況を見ると、その九割までが自然流入で、あとの一割弱が斡
旋だとか紹介所の紹介によっています。ところが今日では形勢一変して、募集は困難です。そこ
で官の力-官斡旋で充足の部面が、非常に殖えています。ところでこの官斡旋の仕方ですが、朝
鮮の職業紹介所は各道に一カ所ぐらいしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関
たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひ
じょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく
山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困
ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供
出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています。」とのべている(『大陸東洋経
済』1943年12月1日掲載「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」 以上 外村大研究室より
 http://www.sumquick.com/tonomura/data.html )(座談会開催は 1943 年 11 月 9 日)
総督府鉱工局労務課事務官は「仕方なく半強制的にやっています」「半強制的な供出は今後もなお
強化してゆかなければなるまいと思ってい」るのだというのだから、総督府は「反強制」を知って
いたし、今後の強化を謀っていたのである。総督府はすでに見てきたように労務動員に協力した。
また各郡や面に割振りした。割振られた各郡や面ではそのノルマを果たすために、強制的な行動を
とった。それを担当の官僚たちも知っていた。



動員時の強制資料4)http://www.sumquick.com/tonomura/data/191025.pdf
「送金僅少または皆無」

動員時の強制資料5)
「復命書」
命を受け、内務省管理局嘱託の小暮泰用が、朝鮮ヘ出張し作成した調査報告書
1944年7月31日、管理局長竹内德治宛


(ハ)、動員の実情
  徴用は別として其の他如何なる方法に依るも出動は全く拉致同様な状態である。
  其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其
の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知
らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼らを精神的に惹付ける何物もなかった
ことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪(せつあく)極まることは
往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破滅が屡々
(しばしば)あったからである。
  殊に西北朝鮮地方の労務管理は全く御話にならない程惨酷である、故に彼等は寧ろ
軍関係の事業に徴用されるのを希望する程である。
  斯くて朝鮮内の労務規制は全く予期の成績を挙げてゐない、如何にして円満に出動
させるか、如何にして逃亡を防止するかが朝鮮内に於ける労務規制の焦点となってゐる
現状である。


恐ろしい事だがこの報告書には、労務動員された結果、家庭が破壊される様子が描かれている。


        4 賃金

さて賃金についても引き続き『復命書』から引用である。
1)
六、内地移住労務者送出家庭の実情

 (略)
  然し戦争に勝つ為には斯の如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理
にでも内地へ送り出さなければならない今日である、然らば無理を押して内地へ送出され
た朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果して如何であらうか、一言を以て之れを云ふならば
実に惨?(さんたん)目に余るものがあると云っても過言ではない。
  蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす
悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様で
ある、其の詳細なる統計は明かではないが最近の一例を挙げて其の間の実情を考察する
に次の様である。  大邱府の斡旋に係る山口県下冲宇部炭鉱労務者九百六十七人に就て
調査して見ると一人平均月七十六円二十六銭の内稼働先の諸支出月平均六十二円五十八
銭を控除し残額十三円六十八銭が毎月一人当りの純収入にして謂はば之れが家族の生活
費用に充てらるべきものである。
  斯の如く一人当りの月収入は極めて僅少にして何人も現下の如き物価高の時に之にて
残留家族が生活出来るとは考へられない事実であり、更に次の様なことに依って一層激
化されるのである。
(イ)、右の純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること
(ロ)、内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的
実施及払出の事実上の禁止等があって到底右金額の送金は不可能であること
(ハ)、平均額が右の通りであって個別的には多寡の凹凸があり中には病気等の為
赤字収入の者もあること、而も収入の多い者と雖も其れは問題にならない程の極めて
僅少な送金額であること
以上の如くにして彼等としては此の労務送出は家計収入の停止となるのであり況
(いわん)や作業中不具廃疾となりて帰還せる場合に於ては其の家庭にとっては更に
一家の破滅ともなるのである。

要約すると、無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は惨憺たるも
のであるという。
967人を調査すると一人平均月76円26銭の内稼働先の諸支出月平均62円58銭を控除し、
残額が13円68銭が毎月1人当りの純収入になり、これが家族の生活費用に充てらるべき
ものだが、一人当りの月収入は極めて僅少で、現在のような物価高の時にこれで残留家族
が生活出来るとは考へられない。更に次の様なこともある。

(イ)純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること
(ロ)内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的実施
及払出の事実上の禁止等があって到底右金額の送金は不可能であること

(ハ)平均額が右の通りであって個別的には多寡の凹凸があり中には病気等の為赤字
収入の者もあること、而も収入の多い者と雖も其れは問題にならない程の極めて僅少な
送金額であること

2)
住友本社鴻之舞鉱業所「半島労務員統理綱要」(1941年)「賃金は内地人の約八十%にならしむるを方針とす」

3)


「最近における労務者の闇賃金に就いて」日本銀行(大阪支店)S19-8-18
(『日本金融史資料 昭和編 第30巻 戦時金融資料(4)』日本銀行調査局編集 
大蔵省印刷局発行p388~p390)
●近来極度の人手不足で労賃高騰著しく殊に日雇い労務者に対する賃金は高騰し、公定
賃金の10倍に及ぶものあり 賃金の他に酒肴、昼弁当など食料を給与
●徴用工員の賃金は家族手当、残業手当を含め平均150円検討だが、出勤率極めて悪く
欠勤してひそかに町工場や日雇い労務者として従事する者が多い
●対策 現員徴用するなど強力な統制を加えようとするものや厳罰主義を以て、賃金を
ひきあげようとするもの

物価)
 備考1)一人で生活『「昭和」を生きた台湾青年』王育徳(おう いくとく)  
昭和18年から東京で浪人生活をしていた王は、親に120円の仕送りを受けていたが
(p204)、19年に東大に合格した後も生活は苦しく「父からの送金は120円だったので生活は苦しかった。外食券をもらって外で食べるのだが、2食分食べても腹いっぱいにならなかった」(p207)と書いている。

 備考2)『隣組と戦争』創価学会青年部反戦出版委員会
仙台市 志栄氏 20年4月の仙台空襲の後
「一か月の生活費が当時300円です」(p15)

宮城県桃生郡 菊池つぎを
(昭和19年ころから)「物価はどんどん上がり」(p103)

2020年2月13日木曜日

反日種族主義批判「イ・ヨンフンによって歪曲される」慰安婦のイメージ 1「楯師団の慰安婦、文玉珠」後半「強要と自発的」

      4、騙されて泣きながら抗議したものは「意志によるもの」とし、自分の意志で決めたものは「強要した」という。


前回、韓国の女性たちが騙されて連れてこられ、泣いて抗議したことを書いた。

それはイ・ヨンフン自身も述べている。





詐欺による徴集は実のところ、米軍資料や東京裁判資料、当時を回想する日本人の著作によって裏付けられている。


泣いた女性も多い。例えば、自身も慰安婦として戦地に向かった菊丸さんは、
「横浜を出て神戸に寄って、それから韓国の釜山で韓国人の女性もかなり乗船しました。彼女たちは私たちと違って志願ではなかったようで、チョゴリを着て乗り込んできたのですが、「アイゴ、アイゴ」と泣くのがなんとも悲しくて……私たちもつられて泣き出しましたよ。」・・・と回想している。(平塚柾緒編『知られざる証言者たちー兵士の告白』 p339ーp349)

自ら、「慰安婦になること」を志願したわけではなく、「看護婦の仕事」とか「工場の仕事」とかいう名目でだまして連れて行ったのである。

ところが、イ・ヨンフンによるとこれは自発的らしい。

こういう。



騙されて異国に連れていかれ、泣いて抗議したが、これは「彼女たちの意志と選択によるものだった」という。
この部分は、帰国しようとした文玉珠さんが警告のような夢を見て、慰安所に引き返すシーンを解釈しているのだが、ここで分かるのは「慰安婦としての職業生活が彼女たちの意志と選択」だったことではなく、ただ単に「引き返したのは意志と選択よるもの」というだけである。慰安婦の生活が「詐欺によって騙されてはじまったこと」はすでに結論ができているではないか?

恐ろしい解釈もあったものだが、他にも奇怪な解釈が加えられている。


なんと、文玉珠さんの家が「妓生という職業」を「強要した」というのだ。

しかし、そんな事が文玉珠さんの回想のどこにあるというのか?

『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私 』で文さんはこう語っている。
歌うことが大好きな文玉珠さんにとって「妓生になる」という事は、「とびきりのアイデア」だったのである。

時代と状況の制約はあっても、明らかに自分の意志で決定している。

イ・ヨンフンは、書いてあることを完全に無視している。

そして、「騙されて連れて行かれた」ものを「彼女たちの意志と選択によるものだった」とし、「自分の意志で決めたもの」を「強要した」とする。

まるで逆というかない。

「強制」とはどういうものか?理解できないのだろうか?

彼らは資料から事実を読み取らない。悲惨な部分は無視し、歪曲し、頭の中で造る自分の解釈を優先している。

だから、こんなおかしな慰安婦論になってしまうのである。


             5

イヨンフンの講義では、文玉珠さんとその恋人との話が長々と語られている。(15:07~18:30)












2020年2月12日水曜日

反日種族主義批判「イ・ヨンフンによって歪曲される」慰安婦のイメージ 1「楯師団の慰安婦、文玉珠」前半




イ・ヨンフンの講義『楯師団の慰安婦、文玉珠」』という動画を見た。
これである。https://www.youtube.com/watch?v=3siNUCt4pXg

文玉珠さんの『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』を題材に慰安婦の生活や待遇を説明しているのだが、いろいろな部分を歪曲し、強引な結論を述べている。


酷いものをつくるものだ。
読んでいない人のために説明しようと思う。



          1、友達に比べて文さんだけが、大金を持っていた
           ことを無視するイ・ヨンフン

イ・ヨンフンは文玉珠さんが大金を稼いだことを述べている。

しかし、第一に「(経営者の)マツモトはお金をくれなかったこと」
第二に、人気者だった文玉珠さんは、チップをためてお金を持っていたが、他の慰安婦にさせられた女性たちがお金を持っていなかったこと・・・は無視している。

文玉珠さんによれば、
「私の手元には少しづつもらったチップが貯まって大きな金額になった。友達に比べて私だけが、大金を持っているのは、都合が悪い」
という。

この部分である。



この部分は、なぜ文玉珠さんが貯金をしたのか?その理由と通帳を造った経過を述べているのである。文玉珠さんによると、宴会に出かけてチップを貯めると金額が大きくなったが、友達はそんな大金を持っていない。そこで兵士の給料を野戦郵便局に貯金していることを知っていた文さんは、知り合いの軍人に頼んでハンコも作ってもらい、貯金通帳を造ったのである。



ところでイ・ヨンフン達とは仲がいいはずの堀和生(京都大学経済学研究科教授)は、「野戦郵便局の対象が軍人と軍属のみで民間人は使えないので、慰安婦と慰安所従業員は軍属待遇であったことを確認できる。」と書いていることも、ついでに知っておくべきことだ。http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori-1502.html 京大東アジアセンターNews Letter
慰安婦は「軍属」または「軍属待遇」(軍従属者)だったのである。

さて話を戻す
こうして、都合の悪い部分を無視したあげく結論はこうだ。



「友達に比べて私だけが、大金を持っているのは、都合が悪い」という文玉珠さん
言うまでもなく友達は「大金を持っていない」のである。

それを解説するのに
「普通の慰安婦と同様にお金を稼いで貯蓄していた」というイ・ヨンフン
誰と同様だって?
やれやれだ。

(イヨンフンは「慰安婦はみな商売で、金儲けしていた」という結論にしたいために、こうした歪曲を行っているのだ)


        2、殴られ、蹴られた慰安婦の話を無視するイ・ヨンフン

他にも無視している部分がある。例えばコレだ。

騙されて連れてこられた慰安所で、逃げられない、と達観して貯金を貯めることに精を出す文玉珠さんの周りには、貞操を奪われ、複数の日本人兵士の相手をすることを苦痛に思っている女性もいた。

文さんの表現ではこうである。

望んで、性の相手をするわけではない。


イ・ヨンフン自身が述べているように、騙されて連れてこられて泣きながら抗議したのだ。
慰安所でも、ささやかな抵抗し、殴られ、蹴られる。

ところが殴られ、蹴られた慰安婦の話は、イ・ヨンフンにとっては都合が悪いようだ。

完全に無視している。


             3、自殺未遂の話

アキャブに行く途中のアケミさんの病死と友達の自殺については述べているが、自殺と言えば慰安所の生活がどのようなものだったかが、よく分かるこの部分は無視している。



解説は不要だろう。
「きついきつい」と言っていた友達が自殺未遂
たちの悪い嫌な兵隊もいて、「朝鮮ピー」と呼んだり、バカにしたり、サックを使わなかったり。
「八つ当たりする人が多かった」

こんなものに、騙して連れていくなんて、虐待としか言いようがないだろう。

アケミさんの病死の前に、友人が川に身を投げたこと(p81)をイ・ヨンフンは一応は述べているのだが、この本には慰安婦の生活がよく分かる部分として、他にも爆弾で左足を負傷したり(p95)、文玉珠さんが酔っぱらった兵隊にののしられ、暴行を受け、左腕を骨折したことなど(p99-100)など、タフな文玉珠さんでも苦しんだ様子が書かれている。軍法会議の話は長々と語っているのに(23:50~25:50)、慰安婦が暴行を受けた話は、無視しているのだ。戦後、文さんは後遺症に悩まされ、不眠を訴え、夜通し泣き明かすこともあったという(p155)。こうした事もイ・ヨンフンの講義には出てこない。このようにトリミングを行いながら「慰安婦と兵士は最前線で苦楽を共にする仲でした」と黒田勝弘ー秦郁彦ー朴裕河ラインが宣伝してきた意見を述べている。

しかしそもそも、銃弾が飛び交う最前線に、婦女子を連れていくことが、どう正当化できるだろうか?

ところで、こんな風に、騙され、殴られ、虐待され、辛さに自殺までした娘たちは、なぜこの仕事を辞めなかったのか?
それを考えるのが、人類に寄与する歴史学なのである。

都合の悪い部分を無視して、怪しげな政治的理屈を振り回すだけのイ・ヨンフンには、歴史家の資格はない。


 (後半に続く)



2020年2月9日日曜日

『反日種族主義』批判②イウヨンの「強制徴用」批判を検証する





『反日種族主義』批判




 当時は「強制連行」という言葉すらありませんでした。特に強制徴用という言葉、今回大法院の判決にも登場したこの言葉が、一体どのような理由で出てきたのかを知っておく必要があります。まず、強制徴用という言葉、そのような概念は、もともとあり得ないものだ。徴用自体が強制だからです。強制徴用という言葉は、我々韓国人がたびたび使う「駅前の前」と同じだ。「駅前」に「前」の字が入っているので、後ろの「前」は必要の無いものだ。同じく強制徴用という言葉にも「強制」という言葉は必要なく、徴用だけでよいものだ。
 それなにになぜ1965年以来今に至るまで、韓国の研究者、政府、言論、市民団体は強制徴用という言葉に執着し、それを使ってきたのか?徴用は戦争が終わるまでの数か月間だけ実施された。それを明確に認めてしまうと、反日種族主義の歴史学に困った問題が生じるのだ。1939年9月から1944年9月までの、より数の多い労務移動が、労務者の自発によるものになるからだ。反日感情を広く伝播させるためには、徴用実施以前にも朝鮮人が自身の意思とは関係なく強制的に連れて行かれ、労務移動の全てが日帝の強制だった、と主張する必要があった。
 つまり、徴用のような強制性を1939年まで遡って、その時期からの全ての移動は強制だったと主張したかったのが、彼らの腹の内でした。こうして作られたのが「強制徴用」です。したがって、この言葉には、単なるミスだとする言い訳では見逃すことが出来ない、巧みな歴史的事実の誇張と歪曲が含まれています。私は、こんなにも深刻な概念的操作を研究者という人たちが何故に行えたのか、どうしても理解できません。(『反日種族主義』~p69)
とイウヨンは書いている。

「特に強制徴用という言葉、今回大法院の判決にも登場したこの言葉が、一体どのような理由で出てきたのかを知っておく必要がある。」とし、その「理由」とやらを書いた部分がこれらしい。
  ↓
理由は「徴用までの労務動員の全てが「強制的だった」としたいがために」・・・であり、それは「つまり、徴用のような強制性を1939年まで遡って、その時期からの全ての移動は強制だったと主張したかったのが、彼らの腹の内でした。」という。

誰かが腹の内で、「1939年まで遡って、その時期からの全ての移動は強制だったと主張したかった」というのだが、それは誰なのだろう?
誰かは分からないが、「腹の中」は分かったらしい。(超能力者か?何か資料出せよ)

これは想像にすぎないのに、断言しちゃっている。

そしてこの想像を元に、相手を攻撃する。

「この言葉には、単なるミスだとする言い訳では見逃すことが出来ない、巧みな歴史的事実の誇張と歪曲が含まれています。私は、こんなにも深刻な概念的操作を研究者という人たちが何故に行えたのか、どうしても理解できません。」・・・と。

「ミスだとする言い訳では見逃すことが出来ない」「巧みな歴史的事実の誇張と歪曲」「深刻な概念的操作を研究者という人たちが何故に行えた」
とかなり手厳しい。

ここで「研究者」と述べているのだから、これは韓国人ないしは朝鮮人の研究者を指しているわけだ。

しかし、こんな事を書く以上、この人ーーイウヨンは、鎌田沢一郎の『朝鮮新話』さえ読んだことがない・・・という事なのだろう。

鎌田沢一郎の『朝鮮新話』でよく引用されるのはこの部分である。


もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。 
納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。


(鎌田沢一郎『朝鮮新話』1950)(元宇垣総督政策顧問、当時総督府機関紙「京城日報」社社長)

明らかに労務動員の拉致、強制性を述べているのだが、問題はこの部分ではなくp323でこう書いていることだ。

朝鮮民衆に誤った強制徴用に対するお詫心を表現し
(鎌田沢一郎『朝鮮新話』p323)

この著作は、1950年の著作である。
戦後、5年しか経ていない。

どういう事か?というと朴慶植(パク・キョンシク)が『朝鮮人強制連行の記録』を著すのは1965年だが、その15年も前にすでに、鎌田沢一郎が強制徴用という言葉を使っているということなのだ。ちなみに鎌田沢一郎は、南次郎時代から小磯時代の労務動員を指して、強制徴用と呼んでいるのである。徴用の事を言っているのではないのだ。「募集」とか「官斡旋」とかいう時代の話である。

おそらく、労務動員を指して強制徴用という言い方はかなり古いのだろう。

イウヨンは「1965年以来今に至るまで、韓国の研究者、政府、言論、市民団体は強制徴用という言葉に執着し、それを使ってきた・・」と書いているが、朝鮮半島でも「強制徴用」という言い方は古くからなされて来たのではなかろうか?調べてみる価値はある。

それから、イウヨンは「強制徴用という言葉、そのような概念は、もともとあり得ないものだ」というのだが、それは鎌田沢一郎に文句を言っているのだろうか?

私の見たところ、イウヨンは、「労務動員における金銭報酬」という部分をごく一部の事業所にのみ特化して調べており、総合的に資料を集めたり、関係諸論文を読んだりしてしていないのだろう。
だからこういう笑える解釈を書いてしまう事になる。

正直、論説全体が穴だらけである。



労務動員の話ではないが
注)帝国議会では戦後すぐの

第89回帝国議会 衆議院 予算委員会 第8号 昭和20年12月10日

で日本進歩党の安藤覺が「當時の総督府は各種の學校に對し人員割當を行ひ、事實上に於ける所の強制徴用をしたのであります、即ち各學校長に對しまして、是等の青少年達が志願的形を執らない限り卒業免状を與へないとか、或は將來に於ての非常な出世の妨げになるとか云ふやうな威迫的な言辭を弄して、事實上志願せざるを得ざる姿に追込んで連れて來た、而も其の狙はれたる所の青少年達は、臺灣に於ける所の中流家庭以上の、而も學校に於ても成績優秀なるものを多く選んで連れて來た、斯う云ふ事實があるのであります」と志願兵について言及している。
強制徴用という言葉がそれなりに使われていたことが分かる。

注)日本の国会では

第1回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第9号 昭和22年10月14日


で緑風会の淺岡信夫議員や北條秀一議員が「強制徴用」という言葉をすでに使っている。

第1回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第12号 昭和22年11月11日

でも緑風会の岡元義人が使用し、1950年(昭和25年)までに12回の国会で「強制徴用」が言及されている。


1972年8月号の『潮』で志願兵について述べた福田恒夫元陸軍大尉もまた「志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません」と述べ、「強制徴用」という言葉を使っている。
・・・(略)・・・志願する者は、きわめてごくわずかであったようです。その結果、各道に割り当て制を実施し、各府、巴、面長(市町村長)ならびに警察、駐在所より勧誘の結果自己の意志からではなく、周囲の状況からやむなく応募したという実情を、当時その人たちから聞かされておりました。当時の府、巴、面長や警察の勧告がたんなる勧告にすぎざるものでなかったことは想像に難くありません。志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません。・・・(略)・・・
   福田恒夫元陸軍大尉、釜山教育小隊長、シンガポール俘虜収容所員 (藤崎康夫「天皇制に忠誠誓わされ、祖国追われた朝鮮人戦犯」「潮」1972年8月号 p208)

<朝鮮人労務動員関係で使った他の例は>

第33回国会 参議院 外務委員会 第8号 昭和34年(1959年)11月30日「強制徴用」 加藤シヅエ議員と藤山愛一郎大臣が使っている。

○加藤シヅエ君 それでは外務大臣は日韓会談の交渉中に、その当時強制徴用であったというようなことを向こう側から何かお聞きになりませんですか。


○国務大臣(藤山愛一郎君) むろん向こう側からは強制徴用であったとか、あるいはいろいろなことを言っている場合がございますがしかし、日本側として戦時中に行なわれました朝鮮人の内地におきますいわゆる日本人として内地に移住したという限りにおいて、それが全部いわゆる内地人と別な扱いをしなければならぬというところまで私は実は考えておらぬのであります。特殊な何かケースがありましたら別でございますけれども、いわゆる一般的に徴用したということについては、それは内地人と変わらないという建前をとるべきではないかというのが私の考え方でございます。しかし、御指摘のように、いろいろな問題が起こっているからとか、こういう事実に反したということがあるのだということでありますれば、そういう特殊な問題でこれは扱うべき問題であって、一般的な問題ではないというふうに考えておるということを申し上げます。

2020年1月20日月曜日

『反日種族主義』批判① 「志願兵は自発的か?」


    

   『反日種族主義』批判「志願兵は自発的か?」

1、日本における「志願兵強制」の歴史研究
志願兵について、日本では1973年11月の季刊『現代史』第3号に金基鳳の回想記「私と1945年8月15日」が発表された。「・・・志願兵の資格を持っていながら「志願」しないのは認識不足な非国民か「不逞のやから」の扇動の影響と決めつけていた」という。

この「志願しない者は非国民」というフレーズは、総督府の機関誌である『毎日新報』が1943年11月19日に書いているフレーズである。


               樋口雄一『皇軍兵士にされた朝鮮人』p82より抜粋

次号季刊『現代史』第4号は「ある朝鮮人元兵士の談話」が掲載された。これには様々な方面からかかる圧力が書かれていた。
(大分県で)「(中学)在学中に協和会支部の会長、町長、学校長、警察、特高、町会議員、部落会長、元親方の南さんとか、おえら方が家に出入りしてこぞって志願をすすめるわけですよ。・・・(略)・・・そういう雰囲気がだんだん強くなってきて、結局それに押し切られたというか、説き伏せられたという形ですね」
季刊『現代史』第6号(1975年)は「朝鮮の志願兵制はじまる」というタイトルで資料を集めている。
こうした証言と資料収集を受けて論文として、君島和彦『朝鮮における戦争動員体制の展開過程』(『日本ファシズムと東アジア』(1977)所収)や宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」(『朝鮮歴史論集下巻』(1979)所収)が書かれている。とりたてて「強制か?自発的か?」というテーマだけを追及した論文ではないが、当初から「警察を中心とした募集時の強制勧誘」(君島)「権力の側からの徹底的強制」(宮田)が、それぞれ資料を元に言及されている。宮田が強制の根拠史料としたのは、「特高月報」に記録される「志願兵制度に対する朝鮮人の動向」や「帝国議会貴族院委員会」(1943年2月26日)等である。
最近、金庾毘が書いた「戦時期朝鮮における朝鮮人陸軍特別志願兵ー日本軍内における進級と差別問題」(『朝鮮史研究会論文集 (57) 2019-10』所収)も特に「強制」をテーマとした論文ではないが、 p.227の脚注で、鄭安基(チョンアンギ)とブランドン・パーマーの論文を批判しているので見ておこう。
チョンアンギは『反日種族主義』で、「特別志願兵 彼らは誰なのか!」を書いた人である。
該当部分をそのまま掲載する。
以下、引用
「(5)ブランドン・パーマー著、塩谷紘訳『検証日本統治下朝鮮の戦時動員1937-1945 』草思社、2014年、チョン・アンギ「・・・」『精神文化研究』41(2)、韓国学中央研究院、2018年6月(韓国語)。
しかしこれらの研究は、その論拠や資料分析などに多少問題がある研究である。例えばブランドンの研究は、李昇燁が指摘するように(李昇燁 「ブランドン・パーマー(塩谷紘訳)『検証日本統治下朝鮮の戦時動員』(草思社、2014年)7」佛教大学歴史学部論集第7号、2017年3月)、史料の内容の恣意的な解釈、史料の理解不足、そして立証性等に問題がある研究である。
またチョンの研究は、朝鮮人志願兵制度は「朝鮮人社会の積極的動員協力がなければ決して成立できない、自発的動員を特徴」とし、志願兵が「志願の可否はやっぱり志願者個人の赤裸々な欲望を反映した多様な選択肢の中の一つ」であり、志願兵は強制させられたのではなく、その「欲望」により自発的に志願した存在だと主張している。
またチョンは小磯の「回顧」を引用し、「警察官の勧誘と説得が激しかった」としながらも「志願を強制する具体的な手段が欠如」していると主張しているが、彼は官憲の強制によって志願させられた志願兵の証言を無視している他、植民地朝鮮における総督府の大衆統制組織と言われる国民精神総動員朝鮮連盟(のち国民総力朝鮮連盟)と末端組織の愛国班による志願の割り当てや志願の慫慂を視野に入れていない。また総督府機関紙と言われる『毎日新(申)報』などの引用に当たっては、史料批判のないまま引用している。志願者の一部の動機が自発的な志願であったとしても、果たして志願を簡単に「欲望」により「志願」した自発的存在だと定義できるかは疑問である。」
引用終

*李昇燁の「ブランドン・パーマー(塩谷紘訳)『検証日本統治下朝鮮の戦時動員』(草思社、2014年)7」はネットで読むことができる。



              2、史料 

 志願兵制度に圧迫や強制があったという史料を読む


朝鮮・陸軍特別志願兵
年度
志願者数
入所者数
1938
2,946
406
1939
12,348
613
1940
84,443
3,060
1941
144,743
3,208
1942
254,273
4,077
1943
303,294
6,300
内務省管理局資料 1944

①公文書から読み取る・・・情報を得ることのできる立場の人たちによる「圧力」「強制」の言及

a)
史料名:「陸軍省業務日誌摘録」1941年4月16日金原節三 (前篇 その3のイ)
陸軍省局長会報での武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長の対話

武藤章軍務局長 「(略) 朝鮮の徴兵制度。及び台湾は志願兵制度をしく要望高し。これは政治上問題あるをもって検討いたし度。」
田中隆吉兵務局長 「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し。従って徴兵制の施行は多いに考慮を要す。」
「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し」・・・これを陸軍省のトップクラスが語っていることの意味は大きい。
一般人は、戦時下の出来ごとについて統制された情報以外はほとんど知らないが、陸軍省のトップクラスにもなれば統制されていない様々な情報を知ることができたからだ。

金原節三プロフィール   1901~1976
1926陸軍軍医学校卒業
以後1943まで陸軍省医務局医事課員として勤務、課長、大佐となる
1943,9 近衛第2師団軍医部長としてスマトラへ、敗戦時はインドシナ
敗戦後、陸上自衛隊へ
『陸軍省業務日誌摘録』は、35冊からなり、前半が医務局医事課員としての記録であり、後半が軍医部長としての記録である。
原本は陸上自衛隊衛生学校蔵で一部はまだ公開されていない。

この資料は、慰安婦問題では知られていたが(『季刊戦争責任研究創刊号』の吉見論文に初出)、志願兵関係の研究論文では使われたことはない。ネットでは「河野談話を守る会のブログ」に言及されている。

b)
議会における答弁 
貴族院 予算委員第三分科会(内務省、文部省、厚生省)昭和18年02月26日速記録

水野錬太郎議員の質問に答えて


政府委員田中武雄 「・・・略・・・それから次は創氏の問題、志願兵問題等に付きまして、官邊の強制と云ふやうなことに関してでございまするが、是は私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りましたので、諮らずも自分がさう云ったやうなことに対しまして責任の地位に立ちましたので、さう云ったことに対しまして間違って居ることがあるならば是正をして参りたいと考へまして、色々事実の真相を調べて見たのであります、必ずしも絶対にさう云ふことがなかったとは申し上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるやうであります、併し将来は左様なことのないやうに、適正に運営して参りたいと斯様に存じて居ります、特に志願兵制度等に付きましては、総督の言明でありまして、新聞に何十萬志願者があったと云ふやうなことを余りに書くことは、一面に於いて由なき宣伝のやうにも見えるし、又それが為に道の競争と云ふやうな心理を誘発する虞れもあるから、何倍にならうがそんなことは差し支えないから、一切新聞に書かすなと云ふことを厳命されまして、確か今年は何倍あったと云ふやうなことは新聞には一切書かさなかったと記憶を致して居ります。左様な状況でありまするので、将来とも一層留意を致したいと思ひます、次は一つ速記を止めて戴きたい」

主査:男爵山川建 「速記を止めて」


創氏改名や志願兵が官僚の強制であることを「私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りました」「一部遺憾な事例もあるやうであります」と政府委員は答えている。
政府委員は時の政府の代表である。速記を止めて何を話したかは分からないが、表に出てはまずい情報があったことは確かである。




 c)


  内務省警務局   特高月報 昭和十六年十二月 朝鮮人運動の状況 


四、志願兵制度に対する朝鮮人の動向
・・・(略)・・・
然れども翻つて斯る現象を裏面より洞察せば志願兵の胸底には自発的に志願せんとするがごときは稀にして強制的に勧誘せらるるが為めやむを得ず応募せるものなりとの意識を有するものその大部分を占め珠に有識層に於いてはむしろこれを忌避し居るが如き状況すら見受けられるは誠に寒心に堪へざるものあり。今後彼等の動静に関しては尚一層注意の要あると共に一段の指導啓蒙を為すことこそ肝要なり。


「自発的に志願せんとするがごときは稀にして強制的に勧誘せらるるが為めやむを得ず応募せるものなりとの意識を有するものその大部分を占め」「有識層に於いてはむしろこれを忌避」・・・というのが実情だったようだ。



 d)
内務省警務局
  朝鮮人運動の状況<10月分>1943年
      四、陸軍特別志願兵臨時採用規則公布に伴う在住朝鮮人学生の動向
十月二十日陸軍省令第四八号を持って陸軍特別志願兵臨時採用規則公布即日施行となり彼等朝鮮人学徒の向ふべき方向明確となりたるが彼等の動向は事前と対比し何等良好なる傾向傾向認められず、相当甚大なる衝撃を与えたるものの如く表面冷静を持しつつも内心の動揺極めて深刻なるものあるを観取せられたり。
即ち彼等は自己運命の開拓に焦慮し志願忌避の念慮より帰鮮又は休学する者多数に及び登校を継続するもの減少しつつありたり。
而して学校当局、朝鮮奨学会等に於いては国家の要請に応へしむべく関係当局と緊密なる連携を保持し志願推奨に努めたる結果11月20日締め切り日における志願状況左記のごとき状況となり一応相当の好果を収めたるものあるも今後不志願者並に一般朝鮮人学生の指導取締上相当注意を要するものあるを認められたり。

    記
志願状況
在籍学生別    適格者    志願者    不志願者
帰鮮学生     1442     1315     127
内地在留学生   1388     712      996
計        2830     2040     796 
(『在日朝鮮人関係資料集成 第五巻』p259-260)

日本に来ている朝鮮人について「志願忌避の念慮より帰鮮又は休学する者多数に及び登校を継続するもの減少しつつありたり」という。
つまり、志願を忌避して帰鮮し、休学するもの多数で、登校するものは減少しつつある・・・・という訳だ。その後、学校当局、朝鮮奨学会に志願推奨させ(=他史料と考え合わせると圧迫・圧力を加え)結果かなりの数の人間が志願者となったのである。


*学徒志願の実態については姜徳相『朝鮮人学徒出陣』がある



            
 ②個別の「強制」の言及、証言

a)
私が帰朝中、村でも三十人ばかりの志願兵応募者の割当を受けているが、それだけの人数がどうしても出来ないし、それでは村の名誉にも拘はるから、お前は三十五歳以上で不合格になることは判っているが名前だけ是非貸してくれと頼まれたので貸したが、その後街頭へ出て見るとなるほど募集に苦心している様な宣伝ビラが沢山貼られているのを見受けた。 さような事は独り私だけではなく、他にもさような事が幾多あった様に聞いている。未だ半島人は心から応募しやうとするものは少ない様だ。 
                            滋賀県 傭人  林 秀雄

b)   
我々は志願兵制度に応募する気持にはなれない。何となれば現在の各層を見るに悉く
内鮮人間に差別待遇があり、甚しきは内地婦女子迄が鮮人を軽蔑して居る現状である。
これではとても軍人となり国家の為に生命を賭すると云ふ気持には到底なり得ない。
最近志願兵募集に当り各地共青年に対し半強制的に応募を從慂して居るが、之が皆
逆効果を来たして居る様だ。応募者の地方頒布状況を見ても都会地の青年よりも田
舎の淳朴な青年が多く又中等学校卒業者が少ないのを見ても知識階級は之を喜ばな 
い傾向にあることが窺はれる」 
      金融組合書記某


 c)


朝鮮では男兄弟二、三人あれば必ず一人は兵隊を志願しなければ非国民のように云は
れるので、止むなく三十歳前の人は志願せねばならないと云ふ事である。先日も父
から手紙が来て『お前は帰国すると兵隊を志願しなければならないから帰つて来
ないように』と云ふ意味の事を言つて来たので自分も暫く帰らない考へだ
       岩手県 古物商 李四用



d)
私は志願兵採用制度に大きな矛盾があるので常に反対の意見を持て居る。現在応募の動機は殆ど警察の強制的募集に依るもので、在営中内地の見学旅行、除隊後半島に於ける革新的中堅幹部として青年の指導者たる地位を選られる等の好条件に釣られ功利的に応募した様な実情で志願兵としての真の精神に反するもの許りである。又総督府は必要数丈は容易に得られるのであるが各道に責任数を割当て居り後に之を講評するので警察は勢ひ強制的に募集する様になり茲に無理が生じ入隊しても挨拶も出来ない様なものが入り、内地人軍人から馬鹿にされ延ては帝国軍人の内容と素質を低下させる様なことにもなる。又一面知識階級者は志願を忌避すると云ふ傾向に流れて居り少し金持の所では無理しても子供に上級学校に入学させると云ふ傾向があり思想的に面白くないのである、そこで私は彼等を真に皇民化するには義務教育の徹底と徴兵令の施行を要望するのである                  朝鮮人将校某
  (「特高月報」 昭和十六年十二月 朝鮮人運動の状況)


e)
志願兵が三千人に対し二十五万あるというが之は強制であって余り好感をもっていないようである。徴兵制は一般大衆には無理で余り関心を持たない。又農村の子弟を徴兵して厳格な訓練をしても之に耐えられるるや否疑問である。要は義務教育を徹底してから実施すべきである。      渋谷区代々木原町 無電局員 某

    (「特高月報」 昭和十七 第四 思想運動の状況)



以下は軍属の動員だが、「志願」の名で、圧力・強制がなされていた証言である

   朝鮮半島には国民精神総動員朝鮮連盟(愛国班)が網の目のように張り巡らされ、同化政策を

   推進し、徴用や志願兵に圧力をかけていた

・・・(略)・・・志願する者は、きわめてごくわずかであったようです。その結果、各道に割り当て制を実施し、各府、巴、面長(市町村長)ならびに警察、駐在所より勧誘の結果自己の意志からではなく、周囲の状況からやむなく応募したという実情を、当時その人たちから聞かされておりました。当時の府、巴、面長や警察の勧告がたんなる勧告にすぎざるものでなかったことは想像に難くありません。志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません。・・・(略)・・・
   福田恒夫元陸軍大尉、釜山教育小隊長、シンガポール俘虜収容所員 (藤崎康夫「天皇制に忠誠誓わされ、祖国追われた朝鮮人戦犯」「潮」1972年8月号 p208)


李義吉家具屋の次男として生まれた私は26歳のとき、町内会の人に俘虜監視員になるよう推薦されました。当時、町内会に逆らうということは警察に反逆することと同じと見なされ、どうしようもなかったのです (『潮』1972年8月号p214) 


金喆洙役所の人の誘いにうっかりのって日本の俘虜監視傭員の募集に応じたのが、私の一生が大きく狂うもとになりました。徴用で、2年間だけ軍属になればいいのだからと、巧妙に説得され、農業を投げうって故郷を離れたのです (『潮』1972年8月号 p215-216)

    
丁永玉ひとり息子だったので、父母は私が監視傭員になることは反対でした。ところが、役人が毎日のように家に来て、息子を出さなければ配給をストップすると脅かしたので、両親はしかたなく承諾したのです (『潮』1972年8月号 p217)

              3 結論


志願兵には、自発的というべきものが皆無ではない。一部は自分の考えで志願したものと考えられる。しかし多くは割り当て(ノルマ)が各道、各面に課せられていた中で、圧迫、圧力により逃げられない状況で送り出されたものである。チョン・アンギの研究は、朝鮮人志願兵制度は「朝鮮人社会の積極的動員協力がなければ決して成立できない」というが、それはごく部分的な事実である。その朝鮮人社会の一部が日本軍の戦争意志を実現するために編成されていたからである。朝鮮半島では網の目のように張り巡らされた国民精神総動員朝鮮連盟(国民総力朝鮮連盟)・愛国班や国民精神総動員朝鮮連盟等各機関が、日本内地では協和会が学校や他各機関とともに圧力をかけたのである。国策によって圧力がかけたのだとしたら、これを「自発的動員を特徴」と結論づけるのは過度の単純化というより、ただのデマである。「強圧により止むを得ず志願せりというもの多し」なのである。




    備考) 張り巡らされた国民精神総動員朝鮮連盟(国民総力朝鮮連盟)と末端の愛国班

『施政三十年史』によれば1939年6月末の時点で愛国班員は460万人余であったという。外村大は「5人組に似た」制度としているが、朝鮮連盟が作成した『非常時国民生活改善基準』を基にした相互監視システムとも言えるだろう。朝鮮連盟の下部組織には「連盟推進隊」もあったが、これは「中堅青年訓練所や陸軍兵特別志願者訓練所の修了者にして、入営の上帰休除隊し朝鮮連盟の講習を受けたもの及び朝鮮連盟において適当と認めたもの」によって構成されていた
(君島和彦『朝鮮における戦争動員体制の展開過程』1977)。




          『朝鮮人軍夫の沖縄日記』 岩橋春美訳

          慰安婦の徴集に使われたという話



         『朝鮮人強制連行』外村大
    愛国班は隣組に似たシズテムで、在朝日本人社会を中心に張り巡らされていた。
      






        「朝鮮人志願兵・徴兵の梗概/概説 第六章」という公文書
各道において、「徴兵義務 遂行」に協力し、国民総力朝鮮連盟も大々的な運動をするという。