2016年6月5日日曜日

毎日の『慰安所従業員:日記』関係記事

「慰安所従業員:日記発見 慰安婦の日常、淡々と 募集の時期は欠落」2013/08/07(毎日新聞)

http://mainichi.jp/select/news/20130807ddm007040157000c.html 2013年08月07日


$大友涼介です。


<引用開始→

=== 関連記事 =====

「『慰安所従業員日記』の新事実」週刊ポスト2013/09/20・27号 http://amba.to/1fNDPCk

「慰安所従業員:日記発見 慰安婦の日常、淡々と 募集の時期は欠落」2013/08/07(毎日新聞)http://amba.to/1aXkyjY

「強制連行朝鮮人の賃金か 貯金通帳数万冊を無断保管」2013/09/08(東京新聞)http://amba.to/15FzH2v

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【ソウル澤田克己】ビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、日記を残した朝鮮人男性は、1942年夏から44年末までの東南アジア滞在中に慰安所3カ所の帳場で働いた。日記には、慰安婦の管理や、軍や役所との折衝といった日常生活が淡々とつづられている。

慰安所が旧日本軍の管理下にあったことは、軍の文書でも確認されている。日記にも「慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた」(43年1月1日)や、連隊本部などから定期的に避妊具を受け取ったりしたという記述が、頻繁に見られる。

軍から移転命令があり「慰安婦一同は絶対反対」(同3月10日)したが、結局は「司令部命令に勝てず移すことになった」(同14日)などの記述から、軍との密接な関係をうかがわせる。

日記の著者は、ビルマ西部の要衝アキャブ(現シットウェ)からラングーン(現ヤンゴン)へ移った。その際、軍から宿舎の提供を受け「火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って」(同年1月21日)もいる。

日記を発見した安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授は「軍属に準じる扱いを受けていたようだ」と話す。

日記からは、前線であるビルマと後方地域のシンガポールとの違いもうかがえる。シンガポールでの日記には、慰安婦の「廃業」や「帰国」に関する記述が多く出てくるが、ビルマではそうした記述は見られない。

著者はシンガポール在住時の44年10月25日、元慰安婦が結婚したので「知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われた」という。

ビルマでは既に日本軍が敗走を重ねていた時期で、連合軍の尋問調書などによると、多くの慰安婦が巻き添えで犠牲になっていた。

一方、日本軍は、定期的に慰安婦を検診し、性病にかかった場合は入院させた。日記にも「検査不合格者が6人も入院した」(44年5月12日)などという記述が多く見られる。「妊娠7カ月なので、休業届を提出した」(同7月4日)というケースや、慰安婦の出産(同9月5日)もあった。

日記には、朝鮮における慰安婦募集に関する記述はない。日韓両国では朝鮮半島で慰安婦を集めるときに強制連行があったかどうかに強い関心が持たれているだけに、安名誉教授は「この時期の日記が欠落しているのは残念だ」と話す。

ただ、米外交問題評議会のジェイムス・リンゼイ上級副会長は毎日新聞に対し、米国で慰安婦問題への批判が強い理由について「女性への性暴力が大きな政治的関心を呼ぶようになった世界的な流れが背景にある」と指摘。強制連行の有無は大きな論点ではなく、慰安婦という制度そのものへの向き合い方が問題視されているとの認識を示した。

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◆慰安所従業員の日記 抜粋

◇1943年

1月 1日 ビルマ国アキャブ市(現シットウェ)の慰安所、勘八倶楽部(くらぶ)で起きて、宮城(皇居)に向かって遥拝(ようはい)した。家内の弟と○桓君は、<慰安婦を連れて連隊本部とその他3、4カ所に新年のあいさつに行ってきた。>

1月 2日 昨日は元日で休業し、今日から慰安業を始める。

1月 9日 今日の検査の結果、病気だった○千代と○子の2人が不合格で、その他16人はみんな合格だった。

1月12日 連隊本部へ行き、慰安婦の収入報告書を提出した。

1月13日 連隊本部医務室から衛生サック(コンドーム)1000個を持ってきた。

1月16日 午後6時ごろ連隊本部事務室で、数日前に頼んだラングーン(現ヤンゴン)への出張証明書をもらった。

1月18日 同行の友となった中村上等兵と兵站(へいたん)へ行って朝飯を食べ、某少尉の案内で彼の部隊へ行って寝食をすることにする。某少尉も同行してラングーンまで行くという。

1月21日 ビルマ国タンガップの<火村小隊の車に火村小隊長少尉らと7人で乗って、午前11時にタンガップを出発した。>

1月25日 横浜正金銀行ラングーン支店で3万2000円を貯金した。

1月29日 朝鮮から一緒に来た野沢氏に会った。マンダレーの方で慰安所をしていたが、今は、部隊の移動に従ってプロメーに移り、営業しているという。

3月10日 <55師団から、マンダレーに近いイェウーに移転しろという命令が(ビルマ国ペグー市の)金川氏の慰安所にあった。慰安婦一同は絶対反対ということだった。>

3月14日 <金川氏は司令部命令に勝てず、慰安所をイェウーへ移すことになった。>

3月16日 金川氏は、師団連絡所からイェウー方面への移動を当分の間、中止すると言われた。

4月 5日 桜倶楽部の慰安婦、○子は腹部がとても痛み、午後、開腹手術をするのだという。○子は昨年、マンダレーにいた時も盲腸炎で手術をした。

6月 2日 (ラングーン市外)インセインの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。正金銀行に行って、村山氏の慰安所の慰安婦2人の貯金をした。

6月20日 光山氏は、今回の慰安婦再編で、夫人を連れて帰国するそうだ。

6月25日 大石氏も今般、慰安婦募集のため帰国するという。

7月10日 <昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した日だ。もう1年になった。>

7月16日 村山氏の慰安所の慰安婦だった○子は妊娠7カ月で、胎動異常があり、今日、鈴木病院に入院したが流産だった。

7月17日 昨日、鈴木病院に入院した○子は流産後の経過が良好で、今日、車で帰ってきた。

7月19日 <インセインにいる高部隊すなわち航空隊所属の慰安所2カ所が、兵站管理に委譲された。>

7月20日 村山氏経営の慰安所、一富士楼が兵站管理となり、村山氏と新井氏は兵站司令部に行ってきた。

7月26日 インセインの慰安所2カ所が兵站管理になった後、慰安婦の検査も兵站の軍医がすることになった。

7月29日 <村山氏の慰安所の慰安婦だったが、夫婦生活をするために(慰安所を)出た春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになったという。>

7月30日 村山氏は8月中に帰郷する考えなのだが、もち屋と慰安所を私に引き受けろという。承諾した。

8月 8日 金川氏も慰安所を他人に譲渡して帰国するという。

8月10日 ラングーンの翠香園で慰安所組合会議に出席した。組合費として経営者は30円、慰安婦は1人2円で計62円を払った。

8月11日 近日は慰安所に来る客が少なく収入もとても減少した。

8月12日 兵站司令部に行って営業日報を提出し、サック400個を受け取った。

8月13日 <鉄道部隊で映画があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた。>

8月19日 兵站司令部で、サックを600個受け取った。

8月24日 村山氏が、一富士楼慰安所を9月まで自分が経営して10月初めに引き渡すというので、それではだめだと言った。

8月26日 兵站司令部で5日間の日報を提出し、サック800個を受け取った。

9月9日 ペグーの金川氏も今日、慰安所を他人に譲渡する契約を締結した。

(この後、筆者はシンガポールへ移動する)

12月 3日 ラングーンで慰安所を経営していた金田氏は去る7月初めに慰安婦を募集するため朝鮮に行った。そして今回、慰安婦25人を連れてビルマへ行く途中でシンガポールに到着した。

◇1944年

2月 1日 今日出発する帰国慰安婦5人を送り出した。

3月 3日 慰安婦、○子とお○が廃業した。3月31日 慰安婦、真○を連れて特別市保安課旅行証明係に行き、内地帰還旅行証明願を提出させた。

4月 5日 帰郷する慰安婦、お○と○子は明日の乗船券を買った。共栄倶楽部の慰安婦、尹○重(○子)も明日出発だ。

4月 6日 <生鮮組合に行ったところ一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が働いていた。お○と○子、共栄倶楽部の○子を見送ってきた。>

4月12日 特別市支部へ行って、金川○玉と島田○玉の2人についての内地帰還旅行証明書を受け取った。

4月13日 特別市警務課に行き、真○の内地帰還についての移動届を提出した。南方運航会社に行って、真○、島田○玉の2人の乗船を申し込んだ。

4月14日 西原君と横浜正金銀行の支店に行き、今般帰郷した李○玉と郭○順への送金をした。

4月15日 慰安婦募集のため朝鮮に帰った大洋倶楽部の主人は来る7月に京城(現ソウル)から出発する予定だと西原君に電報が来た。

4月18日 スマトラ・パレンバンからシンガポールに来て、菊水倶楽部が慰安婦として抱え入れることになった金○順の就業許可のため特別市警務部保安課に行ってきた。

4月30日 今日も軍人の外出が多く、昨日の最高収入をはるかに超過し、2590円余りの最高記録だった。

5月 9日 金○順と崔○玉の稼業婦としての就業が許可された。

5月12日 <今日、検査不合格者が6人も入院した。>

5月26日 昨年9月ごろ、菊水倶楽部からティモール島方面へ行った李○梅という女が今日、シンガポールに帰ってきたと訪ねてきた。

5月31日 正金銀行に行き、金川○玉の送金許可申請を提出した。

6月 1日 中央電信局に行って、金本○愛と李○梅の2人に頼まれた電報を出した。

6月 2日 今日の検査で2人が不合格となって入院したので、今までの入院者まで入れて計5人が入院中だ。

6月 5日 金川○玉と島田○玉の2人は、今朝8時に出発した。

6月 9日 今日の検査結果は、入院中の2人が退院し、2人はそのまま入院。店にいた女たちは全員合格した。今月から女子はたばこ配給がないのだが、稼業婦に対しては接待用として特別に毎日10本の配給がある。

6月13日 4月に帰還した郭○順にすぐ送金したのだが、まだ受け取れていないと2回も電報が来た。

6月17日 新しく入った宋○玉のことで特別市保安課営業係、坂口氏のところに行ってきた。稼業婦特配米を受け取った。

6月23日 帰郷した金川○玉から到着したから送金しろという電報が来た。

7月 4日 <慰安稼業婦、許○祥(○江)は妊娠7カ月なので、休業届を提出した。>

7月27日 正金銀行に行って、慰安婦の貯金をした。

8月31日 今年4月初めに帰郷した共栄倶楽部の稼業婦、尹○重から無事帰還したというはがきが届いた。

9月 5日 <倶楽部の稼業婦、許○祥(○江)は妊娠中だったのだが、中央病院に今夜入院し、23時半ごろ男児を無事に出産した。>

9月 6日 保安課営業係に金○愛の廃業同意書を提出し、証明を受け取った。

9月28日 正金銀行に行って、稼業婦の貯金をし、南方運航会社に行って金○先と金○愛の2人の内地便船の申し込みをした。

10月14日 病弱のため帰郷を決心した。

10月25日 スマトラのパレンバンからシンガポールに来た宮本と<第一白牡丹で前は慰安婦をしていた今の仲居が今般結婚した。今夜、両国食堂で知己の人を呼んで祝賀の酒を飲むと誘われたので行った。>

10月26日 今般帰郷する金○愛の送金許可申請書を提出した。

10月27日 <慰安婦、金○先に頼まれた送金600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った。>

11月 9日 横浜正金銀行シンガポール支店に行って、慰安婦の貯金をした。

11月15日 稼業婦、金○愛は今日、内地に帰還する船に乗った。

11月16日 特別市保安課営業係に行き、帰国した金○愛の酌婦認可書を納付した。

11月22日 仲居、李○鳳と稼業婦、金○守の2人の旅行証明をもらってきた。南方運航会社で2人の乗船申し込みをした。

11月24日 正金銀行に金○守の送金許可を申請し、中央郵便局で李○鳳の送金をした。

12月 4日 正金銀行に行き、送金許可された金○守の1万1000円を送金してあげた。

12月16日 横浜正金銀行に行き、許可された3万9000円を送金し、検疫所に行って検疫証明書をもらった。13時ごろ稼業婦のみんなと別れのあいさつをして停泊場に行き、手荷物検査を終えて17時ごろ乗船した。

(注)日記は、慰安婦のことを「稼業婦」「酌婦」などとも記している。慰安婦らの名前の一部を伏せ字とした。「横浜正金銀行」は、1880年開業の外国為替取扱銀行。日記では単に「正金銀行」とも書かれている。東京銀行の前身で、現在は三菱東京UFJ銀行となっている。<>は記事と関連する部分。

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■ことば

◇軍票と戦時中の郵便貯金

軍票は「軍用手票」の略語で、軍の物資調達などのために一時的に使われる通貨。日本も第二次大戦中に約45億円分を発行したが、終戦後に無価値となった。戦時中はビルマ(現ミャンマー)などの戦地に野戦郵便局、朝鮮半島などの植民地や占領地に外地郵便局が設けられ、軍人や現地住民らが貯金に利用した。

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http://megalodon.jp/2013-0809-1331-13/mainichi.jp/select/news/20130807k0000m040125000c.html

慰安所:朝鮮人男性従業員の日記発見 ビルマなどでつづる

毎日新聞 2013年08月07日 07時00分(最終更新 08月07日 15時56分)

昭南博物館のスタンプが押された日記
昭南博物館のスタンプが押された日記
 【ソウル澤田克己、大貫智子】第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、その様子をつづった朝鮮人男性の日記が、韓国で見つかった。男性は、1942年に釜山港を出発した「第4次慰安団」に参加し、44年末に朝鮮へ戻った。慰安所従業員の日記の発見は、日韓で初めて。旧日本軍による従軍慰安婦問題では、数十年たってからの証言が多いが、現場にいた第三者による記録は、冷静な議論をする上で貴重な資料と言える。
 朝鮮近代経済史が専門で、慰安婦問題にも詳しい安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授が見つけた。約10年前にソウル近郊の博物館が古書店で日記などの資料を入手。これを安名誉教授が最近精査し分かった。堀和生京大教授と木村幹神戸大教授が、日本語訳の作成を進めている。
 日記は、朝鮮半島南東部・慶尚南道(キョンサンナムド)出身の男性が、ビルマとシンガポールの慰安所で働いた43、44年に記した。漢字やカタカナ、ハングルで書かれている。
 男性は05年生まれで79年に死去。22年から57年までの日記が残る。ただ、朝鮮で慰安婦募集に携わった可能性のある42年を含む8年分は、見つからなかった。
 男性は、43年7月10日に「昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、南方行きの第一歩を踏み出した」と記述。44年4月6日には「一昨年に慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が(市場で)働いていた」と書いた。
 ビルマで捕らえた慰安所経営者を米軍人が尋問し45年11月に作成した調査報告書には、42年7月10日に慰安婦703人と業者約90人が釜山港を出港したとの記録がある。釜山出港の日付が一致し、日記の正確性を裏付ける。
 安名誉教授は「米軍の記録が第4次慰安団を指すのは確実だ。慰安団の存在は、組織的な戦時動員の一環として慰安婦が集められたことを示している」と指摘する。ただ、安名誉教授は、韓国で一般的な「軍や警察による強制連行があった」という意見に対しては、「朝鮮では募集を業者が行い、軍が強制連行する必要は基本的になかったはずだ」との見方を示した。
また、日記には「航空隊所属の慰安所2カ所が兵站(へいたん)管理に委譲された」(43年7月19日)、「夫婦生活をするために(慰安所を)出た春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになったという」(同29日)などと、慰安所や慰安婦と軍の関係が記されている。
 一方、「鉄道部隊で映画(上映)があるといって、慰安婦たちが見物に行ってきた」(43年8月13日)、「慰安婦に頼まれた送金600円を本人の貯金から引き出して、中央郵便局から送った」(44年10月27日)など、日常生活の一端がうかがえる内容もあった。

 ◇従軍慰安婦問題

 第二次大戦中に日本が支配した植民地や占領地などから女性が慰安所に集められ、日本の将兵から性的被害を受けたとされる問題。1990年に韓国の女性団体が日韓両国に真相解明や謝罪、補償を求めたのをきっかけに社会問題化した。日本政府は93年8月、慰安所設置や慰安婦移送に旧日本軍が直接、間接に関与したことを認め、「軍の関与の下に女性の名誉と尊厳を傷つけた」と謝罪する「河野談話」を発表した。ただ、女性の連行段階での軍の関わりについては、第1次安倍内閣当時の07年、「政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」という答弁書が閣議決定された。



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慰安所従業員:日記発見 識者に聞く

毎日新聞 2013年08月07日 東京朝刊

http://mainichi.jp/select/news/20130807ddm007040182000c.html

◇募集、「広義の強制」示す--安秉直(アンビョンジク)ソウル大名誉教授

--日記から分かることは何ですか?

◆慰安婦703人の「第4次慰安団」が組織されていたことだ。慰安婦募集が、日本政府の政策に基づく戦時動員の一環だったことを示している。「広義の強制」だといえる。

--強制連行?

◆「狭義の強制」と言われる、拉致のようなものはなかっただろう。業者をサポートする行政組織がしっかりしている朝鮮では強制連行の必要はないし、強制連行は(社会的な騒ぎを起こして)コストが高くなる。ただ、業者による乱暴な行為はあったはずだし、軍服のような服を着た業者が「軍人」と誤解された可能性はある。

--どんな女性たちだったのでしょう?

◆米軍調書によると、大部分は教育のない貧しい女性で、売春経験者は一部だけだ。親に売られた人身売買も多かっただろう。

--戦場での位置づけは?

◆ビルマのような最前線では、前借り金を返済しても簡単に廃業できなかった。所属部隊の管理を受けており、旧日本軍の編成の末端に位置づけられていた。「性的奴隷状態」にあったと言える。

--慰安婦問題に取り組んだ契機は?

◆1990年代初め、慰安婦支援団体が実施する調査活動などを手伝った。だが、「強制連行」と最初から決めつけて証言集めをするような形だったので、運動からは手を引いた。【聞き手・澤田克己、大貫智子】








2016年3月30日水曜日

お笑いのような朴裕河のフェイスブックへの投稿内容


https://www.facebook.com/parkyuha2/posts/707926392643652

ご無沙汰しました。民事敗訴から二ヶ月弱。少し休息を取りました。
しかし、もう次の裁判準備を始めないといけない時期になり、明日は「帝国の慰安婦』事態をめぐるある会合も開かれることになっています。そこで、批判者たちに向けての思いをメモしてみました。早く、静かにこうしたことを書ける時間が訪れることを願っています。
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2016・3・28研究集会に向けて
                 朴裕河(2016・3・27)
1、 忘却あるいは無視・看過されていること
1)「被害者」の一元化-元慰安婦の要求は 一様ではない。「法的賠償」の意味はもちろんのこと、そうした主張があることさえ知らない人たちがいる。-「被害者」という言葉の占有。知識人・運動家(代弁者)の越権。そ のことをまず認識すべき。
2)朴に対する告訴は代弁者、あるいは代弁者(支援団体)が定着させた既存認識に基づいての読解であり、基礎的な間違いさえ存在する誤読によるもの。(박유하「젊은 역사학자들의 『제국의 위안부』비판에 답한다」 『역사문제연구34호』 (朴裕河「若い歴史研究者たちの『帝国の慰安婦』批判に答える」 『歴史問題研究』34号、2015/10 )
3)慰安婦問題は民族・階級・性差別による存在であることは周知のこと。民族問題は「日本」の責任を追求することで問われてきた。朴の本は、それに加えて階級・性の問題を問うたもの。いわば「帝国」の影に隠れていて可視化しなかった部分を見ようとした。こうした問いへの反発(日本免罪への恐怖) は 、男性・階級の責任を問うことを封じるもの。責任回避の言説。責任対象を「日本」という固有名に限定する限り、日韓問わずの「男性」と、労働者の連帯を訴えて「帝国」に抵抗したはずの(中産)「階級」は安全となる構図。
4)責任を問うことにおいて何かを優先すべきという考え方は(ジェンダーより民族問題が大切で重要、など)、別の被害者を抑圧する点で すでに「民主的」でない。しかも少数の声排除。朴の問いを「例外の一般化」として退けるのはそうした思考が作るもの 。
5)そうした意味で、女性問題として連携していながら「日本」の責任だけを問うてきたこれまでの(フェミニズム)議論の限界を指摘した試み。家父長制や階級問題を問い、売春差別問題を問い、そうした認識を共有することができてはじめて慰安婦問題をめぐる長い闘いの意味があると朴は考えた。今のように「日本」という固有名の責任を問うだけでこと終われりとすることこそが、鄭栄桓や徐京植が日本の知識人に見ようとする「知的退廃」(鄭栄桓)や「反動」(徐京植「초심은 어디 가고 왜 반동의 물결에 발을 담그십니까」、「なぜ初心を忘れて反動の流れに足を踏み入れるのですか」2016・3・12付『ハンギョレ新聞』)。
6)「おばあさん(当事者)の痛みを知らない朴」といった構図を作って、大衆の非難や脅迫や訴訟までも呼び寄せておいて安住 。この闘いはしょせん代弁者同士の、思考や態度の対立であるという認識をまず共有してもらいたい。
7)訴訟は本自体から触発したのではなく(挺身隊問題対策協議会も韓国語発刊直後に朴への訴えを検討していたが成り立たないとの助言を受けて断念)、ナヌムの家の元慰安婦たちと親しくなったことを警戒したこと、そして2014年4月のシンポジウム「慰安婦問題、第三の声」においてこれまで声を出せなかったもと慰安婦の声を伝えたところ 、日韓のメディアが注目してくれたことが直接の契機。最初の告訴状には以下のようなことが書かれていた。
<朴裕河は以前『和解のために』を書いた。そしてまたもや『帝国の慰安婦』を書いた。そしてシンポジウムまで開いた。このままだとまたもや本を書くだろう。そうしたことは慰安婦問題解決のためにならない>
告訴した人たちの意図は明らかに「運動の邪魔になる」言葉を抑圧することであり、それのみならず、 代弁者たちとは異なる考えを持つ元慰安婦ー当事者たちの言葉をも抑圧することだった。そのことから認識されるべき。その元慰安婦の一人が 亡くなった直後に告訴が行われたことが最大の証拠。
8)訴訟は 、ナヌムの家の所長や顧問弁護士の欲望と東アジアの政治的対立が、長年の日本のリベラル知識人の知的対立と合作する形で成り立った。後者は、前者を容認するのかを考えるべき。こうした構図は、「日本」の責任を問うことで男性や階級の責任を問うことを禁じる構図と同じことであり、それ以上の世俗的な 問題を含んでいる。それについては今後あきらかにしていく予定。
9)この問題は最初は「強制連行」とみんなが信じることから始まった。そこにおける国家賠償要求は妥当。しかし、その後研究は変っても運動は変らなかった。そして、今度は研究が「国家賠償」「法的責任」を求める運動の論理を支えるものに変容。そのために「強制性」の強調をしているかのように見える、転倒した、アクロバットな状況。慰安婦問題をめぐる学問は運動に飲み込まれているか敗北した状況。これには近代国民国家を支えてきた「法至上主義」的考え方が働いており、そうしたシステムを相対化してきたはずの研究者たちがこの構図を支えている。
10)現在の東アジアの不安定な状況をもたらした責任、両国を反日・嫌韓に導いた責任は誰にあるのか。それぞれ自らに問うべき。慰安婦問題をめぐる運動と研究にはそうした自己反省が欠如。現在のままではたとえ安倍首相が謝罪しても両国の国民感情は根本的には変容しない。おきざりにされるまま。
だとしたら慰安婦問題の解決は何のためだったのか? 首相や天皇は象徴的な意味を持つのみ。重要なのは歴史認識の共有。これまでの運動はいわば、それぞれの人口の半分を抑圧するあり方。政治的スタンスが異なっていても「共存」しうる共同体作りは最小限度の前提。そうした模索が欠如した議論。

2、 鄭栄桓氏の本ほか批判者たちへの具体的な反論の前に

1)2015年8月、それより三ヶ月前に韓国の歴史誌『역사비평』 ( 歴史批評)に掲載された鄭栄桓氏の朴裕河批判に答えての反論を2015年10月に掲載。(朴裕河『慰安婦問題と1965年体制について―鄭栄桓氏の批判に答える』)ここでは具体的な反論より「態度」を問題視した。事実などに関する批判に対する具体的な反論は先の『歴史問題研究』所収の論文や同じく朴裕河「記憶の政治学を超えて」(『東アジア和解と平和の声』創立シンポジウム 歴史への向き合い方)資料集、2015・6.20)ほかを参照。
2)鄭氏のみならず多くの批判者たちにおいて、不正確に要約し、批判するケースが多すぎる。鄭氏は翻訳においても微妙にすりかえる。 しかも批判者たちはナヌムの家の所長の嘘まで含む文書を英語にして拡散している状況。慰安婦問題運動で築けたネットワークを朴批判に使っている現状。不正確・歪曲への欲望を隠さないのは右派も同じで(たとえば『サピオ』における映画『帰鬼』に関する記事など。2016・3) 、いわば敵対的共存状態。本で指摘した、極端な「記憶の闘い」を今でもやっている状態。以下はそうした状況の一端への指摘。 (朴裕河フェイスブックページ2016年2月14日ポスティングへに泥憲和さんが3月9日に寄せたコメント )
<私は韓国語版を読めないので日本語版にもとづいて語るしかないのですが、その限りにおいて、鄭栄桓氏の批判手法は、あらかじめ『帝国の慰安婦』を全否定されるべきものと措定したうえで、その結論に合わせてあれこれの断片をつなぎ合わせており、しかも不正確な引用がされているとの印象を持ちました。 引用の一例をあげれば、鄭栄桓氏「だとしても、愛と平和が可能であったことは事実であり、それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係だったからである。」『帝国の慰安婦』日本語版原文「だとしても、愛と想いの存在を否定することはできない。そしてこのようなことがめずらしくなかったのは、朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が構造的には<同志的関係>だったからである。そのような外見を裏切る差別を内包しながらも。」「構造的」が「基本的」に、そしてカッコつきの「<同志的関係>」が平文の「同志的関係」に、さらに一センテンスがカットされています。これでは全体の論旨がまるで異なったものになります。そして鄭栄桓氏は歪められた『帝国の慰安婦』を批判しておられる。 朴裕河氏が「同志的関係」を無批判に認めているかのように鄭栄桓氏は非難なさるのですが、朴裕河氏は「同士的関係」をあくまで外形的に強制する構造がそこにあり、慰安婦も生きるためにそのうわべの関係性を受容するほかなかった悲劇を述べておられます。 被支配者が支配者の思想に染まり、追従する関係は珍しいものではありません。慰安婦が意志強固な独立の闘士であったはずもないのだから、おかれた境遇に身を任せるしかない弱い立場の存在として生きるために、「同志的関係」という虚構にすがったであろうことがどうして不思議でしょうか。 私はむしろ朴裕河氏のような視点を持たない慰安婦論は、人間存在というものを捨象した平板な政治的議論にしかならないのではと思っています。>
3)『帝国の慰安婦』とは 「自ら・動員された」というような状況を示そうとした二重の言葉。韓国語版の表紙に着物を着た慰安婦の写真を使いながら半分に切った絵を使ったのはそうした意味を込めたもの。日本人にならないといけない構造と、しかし、「ほんとうの」日本人にはなれなかった構造を表した。批判者たちはそれを『自ら行った慰安婦』とのみ捕らえている。そうした意味でも慰安婦否定派と同じ視点。
こうした状況は植民地時代をどう捉えるかの問題でもあり、長い議論が必要なものだ。しかし、法廷でそうした議論をすべきなのか?あるいはできるのか?にもかからわずそうした論駁が法廷で行われている(現実には論駁さえなく、裁判官たちが読んでいるかさえ確認できない) アイロニ―を批判者たちはどう思っているのか。「法」と名づく国家に問題の判断を任せた点では「国民」「市民」の 敗北。
現に鄭の論証の多くはすでに「名誉毀損」とは関係ないところで論じられている。にもかかわらず 、鄭や法学者、その他の論文が裁判所に提出され、朴の「犯罪」の証拠として使われた。自らの論が使われることに異議申し立てをしなかった以上、起訴と民事敗訴に加担したことになる。
補足するなら 、「自発的売春婦」とは親のため兄弟のため、売られることを承知した人々でもあった。そうした女性たちの「犠牲」がこれまではまったく気づかれず、省みられかったための否定であり、慰安婦を売春婦という言葉から解放するためにはむしろそうした「概念」の再定義が必要。朴は『帝国の慰安婦』で「売春」の再定義をしたつもり。多くの読者はあるがままに受け入れてくれたが、既存の概念に囚われていた人々は依然「否認」するか「執着」した。それはそれまで世間に訴えてきた言説を守るためであったが、それが高じたのが「否認」派による訴訟行為。
4)日本男性による資料を使ったのは、もと慰安婦の証言を「うそ」とする人々に対して「あなたの先祖もこういうふうに考えていた」と言うために使ったもの。実際に強制かどうかはその軍人には重要ではなく「何千回の性交」をさせられる女性たちの悲惨に思いをはせたのも、慰安婦たちのそばにいた軍人たちだった。「日本」のものを使ってはいけないのなら、すべての資料に対してそういわねばならないだろう。兵士が「同族」と思ったからといって差別がなかったとは書いていない。
5)書き手の意図がどうであれ、あらゆる文書は読み手の解釈によって新たな意味を帯びる。したがって「恣意的」とはあたらない。重要なのはどこまで正確で、説得力があるかだ。「恣意的」とする鄭の指摘は、テキスト研究の常識を知らないゆえの言葉。
6)鄭が引用したように(2016・3・28のための鄭レジュメ3頁)、わたしは「業者のみに問題があるとするのは、問題を矮小化することでしかない」と書いた。にもかかわらず、業者の責任のみを問うたかのようなイメージを批判者たちはばらまいた。鄭はこの文章を引用しながらも朴が「業者主犯説を展開」したという。“日韓合意は『帝国の慰安婦』のせい” とする議論も多かったが、鄭のように読まれていたらそうしたことさえもなかったのではないか。
7)秦郁彦氏が『帝国の慰安婦』に好意的だからといって朴の思考が秦氏の思考と同じものになるわけではない。言うまでもなく安部首相に関しても。論自体の論駁ではなく誰かとの「類似性」を見出すことに集中し、対象をグル―プ化するような「知的怠慢」から抜け出すべき。
8)批判者たちは植民地の慰安婦の「奴隷」性が構造的には日本軍によるものでも、より直接には業者による「強制」労働によることを認めるべきではないか。階級問題に関心が多かったはずのこうした沈黙の意味を問いたい。
9)外出に関しても同様。逃走を禁止していたのは業者だった。外出に許可が必要だったのは戦場だったための、危険防止、スパイ行為防止のため。<性奴隷の逃走>だからではない。 逃げ出した慰安婦を業者が探し出そうとしたのは、慰安婦が彼らの資本だったからだ。
10)賠償・補償を使い分けたのは支援団体。わたしは深い意味を込めずに使った。言葉尻を捕らえる詮索と、存在しない「ひそかな欲望」(レジュメ7)を探し出そうとする努力の不毛さと暴力に気づいてもらいたい。 憲法裁判所の判断は支援団体の資料による判断だった。その後の裁判所と検察の判断も同じ。裁判所や検察の判断は 「法」の判断に朴が異議申し立てをした罰か。そうした処罰に研究者・学者も加担しているのが現状。
11)裁判対応に追われて、恣意的・誤謬といった無根拠な断定に反駁しないでいるうちに、それらはそのまま裁判所に提出され参照・引用された(2016・1・13、民事判決文)。最初の告訴状には徐京植の『和解のために』批判がそのまま引用されていた。2008年頃から韓国で始まった徐京植による朴批判(これを受けてハンギョレの記者は“『和解のために』は右翼の賞賛を受けた’と書いた”)が告訴を支える根拠になったのは明らか。そうした批判を信じたメディアや国民によっていまでも朴は日々全国民的な非難・敵意と脅迫にさらされている。そしてそれ以上に深刻なのは、日本のリベラルへの不信が根付きつつあることだ。
したがって、もはやこうした批判を「当事者のため」と言うべきではない。朴のみならず、そうした抑圧の下に自らの声を出せずに亡くなっていった慰安婦もいた。
12)徐京植から始まった「リベラルの自壊」現象と称する認識に関しては、和田春樹の反論を参照してほしい(2016・3・26、ハンギョレ新聞
和田春樹教授、徐京植教授の公開書簡に答える(上)
http://japan.hani.co.kr/arti/international/23709.html
それにしても、こうしたことを引き起こし、日本のリベラルへの不信を韓国に作り、定着させようとしている「在日」はいったい誰と連帯したいのか?
13)こうしたすべての混乱は、国民・国家といったあいまいな共同体批判と、知識人批判を同じアプローチで試みた結果。それについては改めて書きたい。「なぜここにたどりついてしまったかの再検証」(鄭・8)は、自らの思考の問題と結果責任を問うことから始めるべきだ。
아베의 사죄 표명이 12·28 합의 백지철회보다 중요
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コメント7件
コメント
掘家 泰弘
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中居 現 シェアさせてください。研究材料にします。
朴裕河 どうぞ。問題ありません。
張 勝一 「帝国の慰安婦」に対する批判(非難)には、部分的曲解、恣意的な引用、「元から否定するための批判」が多く見られ、朴氏が提唱する多様な視点が圧殺されていると感じます。まるで、運動団体が構築した「慰安婦像イメージ」から少しでも外れたものは一切受け付けない、といった硬直した思考回路。これでは、建設的な相互理解の道は開けない。
池村 六郎 溜め息が出るのですが、わたくしの溜め息など、朴さんの奮闘努力には、なんに役にも立たないでしょう。党派の論理や運動家の自己満足というのはホントに難物。かれらは、冷酷政治の真似事?のつもりかもしれませんが、愚かです。季節の変わり目です。お身体大切に。
時折貴織 When if you need a help, please let me know.

I can provide you a safety place in several countries.
翻訳を見る
Hajime Sakuraba 互いに物事を単純化してしまう衝動に対して忍耐力を持たなければ





朴さんはこんな事を言っているし、その信者さんたちも、何も気付いてないらしい。

これについて鄭栄桓氏が直接問題点を指摘しているので紹介しよう。




『帝国の慰安婦』すら「忘却」する朴裕河

 昨3月28日、東京大学駒場キャンパスにて『帝国の慰安婦』の評価をめぐる討論会が開かれ、私も報告者として登壇した(追記参照)。討論会では色々な意味で興味深い発言に接したが、それについては日を改めて記すことにする。

 ところでこの討論会の開催に先立ち、朴裕河が自身のfacebookに私の批判への反論を掲載した。これまでに輪をかけて滑稽な「反論」を展開しているので、紹介して簡単にコメントしておきたい。

 朴は私が『帝国の慰安婦』を「不正確に要約し、批判するケースが多すぎる」とし、その具体例として泥憲和による以下の指摘を引く(読みやすさを考慮して適宜改行した)。

<私は韓国語版を読めないので日本語版にもとづいて語るしかないのですが、その限りにおいて、鄭栄桓氏の批判手法は、あらかじめ『帝国の慰安婦』を全否定されるべきものと措定したうえで、その結論に合わせてあれこれの断片をつなぎ合わせており、しかも不正確な引用がされているとの印象を持ちました。 

 引用の一例をあげれば、

 鄭栄桓氏「だとしても、愛と平和が可能であったことは事実であり、それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係だったからである。」

『帝国の慰安婦』日本語版原文「だとしても、愛と想いの存在を否定することはできない。そしてこのようなことがめずらしくなかったのは、朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が構造的には<同志的関係>だったからである。そのような外見を裏切る差別を内包しながらも。」
 
 「構造的」が「基本的」に、そしてカッコつきの「<同志的関係>」が平文の「同志的関係」に、さらに一センテンスがカットされています。これでは全体の論旨がまるで異なったものになります。そして鄭栄桓氏は歪められた『帝国の慰安婦』を批判しておられる。>

 泥憲和はこのように、私が『帝国の慰安婦』の原文を改ざんした、と主張する。だがこれは、泥が私の『帝国の慰安婦』朝鮮語版からの引用を、日本語版からの引用と誤解したがために生じた誤りである。おそらく「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について」を読んだものと思われるが、この記事を書いた時点ではまだ日本語版が出版されていなかったため当然ながら朝鮮語版から引用した。泥の手元にある本と記述が違うのは当然である。

 つまり、「「構造的」が「基本的」に、そしてカッコつきの「<同志的関係>」が平文の「同志的関係」に、さらに一センテンスがカットされ」たのは、ほかならぬ朴裕河自身が日本語版の出版に際してそのように書き換えたからである。「全体の論旨がまるで異なった」ものになったと泥が感じるのならば、その批判は朴自身に向けるべきであろう。

 だが驚くべきことに、朴裕河は私が『帝国の慰安婦』を「不正確に要約し、批判するケース」の唯一の例として、この泥の非難を自ら紹介する。泥の「全体の論旨がまるで異なった」ものになったとの非難が実際には自分に向けられていることに朴は気づいていないのである。滑稽というほかない。

 これまでも朴は『帝国の慰安婦』からは明らかに導き出せない主張を自著の「要約」として示し、批判者の「誤読」を非難するという驚くべき「反論」法をくりかえしてきたが、今回は度を越している。自らが日本語版に際してどのような修正を加えたのかすら「忘却」してしまっているのである。一種の「才能」というべきであろうか。

追記

 以前にも書いたが、韓国では、教授の職位に無くても専任職の大学教員を「教授」と呼ぶ変な慣習がある(もしかしたら非専任職にも使うのかもしれないが、経験上、非常勤講師だった頃に「教授」と呼ばれたことはない)。『ハンギョレ』などの新聞で私の肩書(准教授)が「教授」となっているのはこのためである。韓国のこうした慣習自体いかがなものかと思うが、少なくとも日本語版の翻訳記事でどうしても職位を載せる必要があるときには正確に掲載していただきたい。

(鄭栄桓)






要するに、韓国語版を日本語版に直す時、朴裕河氏は、元の文章が分からないほど、大きく変更を加えた。


泥憲和氏は、それに気付かないで、てっきり鄭栄桓氏が変更を加えたと勘違いしてしまった。そしてこれを朴裕河氏にご注進。

ところが、ここで朴裕河氏も、その変更を自分が加えた変更だと気付かないで、鄭栄桓氏への攻撃材料として使ったという
なんとも稚拙な話である。

どうにも嫌になっちゃうね。


それにしても以前、私に「朴裕河さんの著作への読み込み不足だ」とか言い張った泥さんだが、こんな初歩的なミスをしながら、そういう事をいうわけだから、やれやれというしかないな。