2016年1月13日水曜日

朴裕河氏の認識の問題点メモ


朴裕河氏の手前勝手な言い分について今回はメスを入れてみる。

私のコメントは赤字

https://www.facebook.com/parkyuha2/posts/587317834704509

<帝国の慰安婦ー植民地支配と記憶の闘い>要約
2013年夏、韓国語版<帝国の慰安婦>の原稿を送った直後に日本で講演依頼を受けて書いてみた原稿があります。当時フェイスブックに<ノート>として載せましたが、その後日本語版を書きながら得た認識を踏まえて少しだけ補足しました。フェイスブックページはフェイスブックユーザーでなくても読めるので、それぞれのコミュニティ空間にシェアーしていただければ幸いです。
あらためてアップする最大の理由は、両極の批判者たちが
両極の批判者と表現する。自分が中間、中道であるような錯覚を持っている
(悲しいことに、これまで解決を望んで来た側の人たちの批判がより本格的で多いようですが)細部・部分だけを切り取って勝手な解釈を加えているからです。要約とてもちろんその危険性はありますが、先日の英語要旨同様、意図的な誤読や勝手な解釈が出回っているので、まずはこちらをご参照くださいますように。
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慰安婦問題、どのように考えるべきかー秦郁彦・吉見議論(2013・6)を踏まえて(2013・7・15、明治学院大学)
慰安婦問題はどのように考えるべきなのだろうか。昨今大きな混乱を呼んでいるこの問題について、とりあえず日本で「慰安婦問題の第一人者」とみなされている二人の歴史家のお話に議論を添わせる形で話したい
ここで議論の土台にするのは、去る6月にラジオで放送された「秦郁彦 吉見義昭 第一人者と考える慰安婦問題の論点」である。安倍首相は「歴史家に任せたい」としていたが、歴史家の「第一人者」の議論がなかなか接点を見いだせていないことから分かるように、慰安婦問題はもはや単に「歴史家」の考えだけでは日韓の合意どころか「日本内」の合意さえ見いだせない状況となっている。
歴史認識と日韓政治問題を混同しているのが痛い
日本内、あるいは日韓間の「合意」を導き出すのが難しくなっているのは、この問題がすでに長い間解決されないまま長引き、両国民の多くがこの問題に関してかなり詳しい「情報」を持った結果
虚偽情報ばかり浸透し、ほとんど無知であることが大きな原因である。
として政治問題となってしまったからである。それには、「慰安婦」そのものをめぐる情報や考え方の食い違い自体よりも、現在身を置いている政治的立場やそれに伴う感情までが入り込んでしまったという背景がある。さらに、この問題に直接・間接にかかわってきている人の数が多く、そのほとんどの人たちが間接的な「当事者」にもなっていて、かかわった期間が長かっただけにそれぞれの主張が自らの価値観や政治的立場を示すもの まず自分の政治的立場を明らかにすべきであるにさえなっていることも、既存の考え方や立場をなかなか崩せない大きな原因となっている。
この問題について考える時もっとも必要と思われるのは次のことである。
1)できるだけ早い解決 当たり前すぎ
2)この問題を「慰安婦」という存在自体をめぐる状況はむろんのこと、ここ20年の運動や葛藤の様相についても知る。 あなたのような支援団体攻撃を助長するやり方ではだめ
3)これまで関わってきた人のみならず、、一般識者や市民たちがこの問題を考え、声を出す必要がある。
1、「慰安婦」とは誰か
近代以降、交通の発達や国家の勢力拡張の欲望を内面化する形で、海外へ単身で移動する男性たちは多かった。そしてそのような男たちを支えるために女性たちの「移動」も多くなった。日本の場合、最初は日本に入ってきた外国軍人のためにそういう女性たちが提供されていたが、同じ頃から海外へもでかけるようになっていた。いわゆる「からゆきさん」がそれで、彼女たちの殆どは貧しい家庭出身で親に売られたり家のために自分を犠牲にした女性たちだった。
そして彼女たちは朝鮮に駐屯した軍隊や国家の移住奨励政策に従って移住していった男たちのために朝鮮にも移住して行った。やがて朝鮮半島にも公娼制がしかれ、朝鮮人女性もそこで働くようになる。すでに日露戦争の時から軍人たちを「慰める」女性たちはいたのであり,軍隊を支える役割をしているという意味で彼女たちは「娘子軍」と言われていた。
日露戦争以来の戦場売春婦と慰安婦を混同している。先行研究を無視している
つまり、「慰安婦」とは基本的には<国家の政治的・経済的勢力拡張政策に伴って戦場・占領地・植民地となった地域に「移動」していった女性たち>のことである←何この定義?商人や軍人が利用した「慰安所」のようなものは早くから存在していた。「慰安所」や「慰安婦」という名前は1930年代に定着したようだが誰に?どこで?定着その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである。トンチンカンなお話で
2、「慰安婦」と「朝鮮人慰安婦」
当然ながら、日本の場合は遠い海外へ「国家のために」でかけている男性のために「慰安婦」が用意されるのでその対象は「日本人女性」だった。ところが、朝鮮が植民地となったがために「朝鮮人女性」や台湾女性もその仕組みに組み込まれることになる。1920年代にはすでに中国や台湾には朝鮮人女性も海外にいる「日本人」や「日本人となった朝鮮人」を相手するためにでかけていった。のちの「朝鮮人慰安婦」の前身と見るべき存在である。
3、「からゆきさん」の「娘子軍」化
からゆきさんの中には、たとえ売られてきていわゆる「売春」施設で働いても、拠点を築いた女性たちは「国家のために」来ている「壮士」たちのためにお金や密談のために場所を貸すような立場の女性たちもいた料亭の女性?彼女たちが「娘子軍」と呼ばれるようになったのはそのため嘘つけー、そのようにして彼女たちは蔑まれる一方で「格上げ」されることになる。一方彼女たちも、間接的に「国家のために」働く男たちを支え、郷愁を満たしてあげることでそれなりの誇りを見いだすこと(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)もあった。「慰安婦」とはそのような仕組みが支える名称であるまた妙な定義を
4、様々な「慰安所」
したがって、日本軍が1930年代に入って突然「慰安婦制度」を発想して<「慰安所」を作った>のではなく、それまでにあったことをシステム化したと見るべきである大雑把なお話で他国の場合と違うのは、‘愛国心がその仕組みに利用されたことである。
日本軍は、満州国と日中戦争のために駐屯軍のために、それまで衛生など(内地なら警察が管理していた)の「管理」をしてきた売春施設のうち(料理屋、カフェなどにはその役割をしたところもあった)、基準を満たすところを「指定」して「軍専用の慰安所」にした。しかしやがて軍隊の数が増えたことや、便宜性などを考えシステム化するにいたったのである。そして業者を使って「募集」するにいたったが、その形はさまざまであった。
つまり今日「慰安所」と考えられているところには、必ずしも軍が新たに作ったところだけではないあのねー慰安女制度を軍が造ったと言っているのに日清・日露戦争以降の既存の施設も含まれ、すでに個別に働いていた人たちに軍が接受した場所を提供し、「収容」する場合もあった。「業者」を、移動や経営に関する便宜を与えるために「軍属」(あるいは軍属扱い)にする場合もあった。
しかし、それはあくまでも「軍が作った」慰安所に限る。したがって「慰安所」の形が様々であるだけに、「業者」のあり方も様々だった。島などの場合、
業者自ら、自分で粗末な「慰安所」を作り、「臨時営業」(一種の派遣業務)を始める場合もあった。しかしいずれにしても戦場の場合、移動に関して軍の許可が必要だったため、基本的にはその
多くの動きを軍が知り、統括していたのは間違いない。しかし、将校などは指定慰安所を使わずに、普通の料理屋を慰安所として利用する事も多かった
料亭を慰安所に混同している
軍が慰安所を作った(指定した)理由は、言われているように性病防止やスパイ防止以外にも、利用軍人が多くなるにつれて、部隊から近いところにおく便宜性や「安く」利用できるようにするため、の理由もあったとようである根拠を出しなさいよ
。その場合の料金は<公>と言われた。
「慰安所」は、ひとつの形ではなく時期や場所によって様々な形があったことを念頭におく必要がある。
5、様々な「慰安婦」
したがって、本来の意味でなら、日本が戦争した地域にあった性欲処理施設を全て本来の意味での「慰安所」と呼ぶことはできない。本来の意味での「慰安所」とは何でしょうね?たとえば「現地の女性」がほとんどだった売春施設は本来の意味でなら「慰安所」と呼ぶべきではない。つまり、そのような場所にいた女性たちは単に性的はけ口でしかなく、「自国の軍人を支える」「郷愁を満たす」という意味での「娘子軍」とは言えないのである。戦場で提供されて、半分継続強姦の形で働かされた女性たちや、戦場での一回性の強姦の被害者は、厳密な意味では「慰安婦」とはいえない妄想的だなあ
したがって、アジア太平洋戦争で日本軍の性の相手をした全ての女性を「慰安婦」と呼ぶべきではなく、本来の「慰安婦」の名前にふさわしいのは、「日本人」や「日本人」にさせられた「朝鮮人」「台湾人」「沖縄人」だけと考えるべきである。
しかし、普通の売春施設にいた女性たちも「慰安婦」と同じように軍を対象にした性労働に従事し、「愛国食堂」のような看板を掲げて軍人を受け入れてもいたので(もちろん指定業所になっていたはずだ)、事態はややこしい。
しかし、すくなくとも、戦場での一回、あるいは継続的強姦をさせられた女性たちと、日本人を含む「慰安婦」たちの、軍人との関係の違いは歴然としている。いや、あまり差は無いね
「慰安婦」は、このように国籍や時期、そして場所(最前線か後方か)によって、その体験は異なっている。
にもかかわらず、そのすべてを「「慰安婦」と考えて、問題の対応に当たったことから、大きな混乱が始まったのである。自分が混同しまくっているが、それを他者の問題にしている
しかし、そのどのケースであっても性的労働に従事させられるのは、社会における弱者であり、彼女たちの多くが病気にかかりやすく、死が隣り合わせの悲惨な境遇にいたことを認識することは、慰安婦問題を考えるための大前提とならなければならない。
6、「強制連行」について
したがって、軍人を相手に性労働をするまでになった経緯も当然ながら一つではない。中には本格的な募集が始まる前から現地にいた女性もいた。え―誰?誰?
韓国で最初にこの問題を提起した人は、自分が経験した「挺身隊」のことを「慰安婦」のことと勘違いしたあなたが勘違いです彼女が経験した「挺身隊」は「学校」で「判子」を押すような形だったので彼女はその募集を「強制」と思ったのである。しかし「挺身隊」の募集が「学校」単位での「国民動員令」によるものだったことから分かるように韓国で動員令が実行されたという主張だろうか?「教育」のある人が対象だったのに対して「慰安婦」はほとんど低いレベルの教育か教育を受けていない人がその対象だった。韓国で慰安婦が「強制連行」されていったと考えるようになったのは、日本の否定者たちが言うように慰安婦が「嘘」を言ったからではなく、まずはこの90年代の勘違いによる強制連行は勘違い?何それ?
しかしさかのぼれば植民地時代にすでに「挺身隊に行くと慰安婦になる」との風聞はあった。「慰安婦」は「挺身」して「兵隊さんのためのこと」をすると言われたのであり実際のところ看護補助や洗濯など「性的慰安」以外のことをさせられる場合もあったので、まったくの誤解とも言えない
(兵士の墓の掃除や洗濯なども、朝鮮人慰安婦たちはやらされていた)。
「軍人」がつれていったと証言する慰安婦の割合はすくなくとも証言集を見る限りむしろ小さい。そしてその場合も、「軍属」扱いを受けた業者が「軍服」を着て現れた可能性が大きい。また、業者自らが、集めやすいように、当時始まっていた国民動員としての「挺身隊」へ行くのだと言った可能性も排除できない。業者は、日本人と朝鮮人がペアで現れたことが多かったようである
しかし、慰安婦の募集は、一人や少人数でいるところを「工場」へ行くなどの言葉でだまして連れて行かれたことが、証言では圧倒的に多い。そういう意味では、「軍につれていかれた」という意味での「強制連行」はなかったか、たとえあったとしても「例外的」なこと—つまり「個人」の逸脱行為と見るべきであって、「軍が組織として(立案と一貫した指示体系を通して)だましや強制動員をした」と見るのは間違いと考える
オランダや中国の場合、軍が直接集めたり隔離して性労働に従事させたのでそれはより「強制性」が強い。ただその場合は上記の意味での「慰安婦」とは言いにくいすごい定義つけ日本人・朝鮮人・台湾人が「日本帝国内の女性」として軍を支え励ます役割をしたこれこそ画一的理解と言えるのとは違って、彼女たちへの日本軍の行為は、「征服」した「敵の女」に対する「継続的強姦」の意味を持つからである。このような日本軍との「関係の違い」が無視されて同じ「被害者」としてのみ理解されたために、「強制連行」や「慰安婦」に対する理解が、否定者と支援者間に接点を見いだせずに慰安婦問題をめぐる混乱が深まったのである。
大まかに分ければ、問題発生以来、「慰安婦」としてみなされてきた人の中には,もとの意味での「慰安婦」(これは挺身隊よりゆるやかな「国民動員」の一種と見るべきである)、民間運営の施設(占領地や戦地に早くから存在した場所を含む)を軍が「指定」し衛生などを「管理」した所で働いた人たち、戦場で捕まって継続的強姦の対象になっていた「敵の女」の三種類の女性たちが混在している。
軍属扱いをされ、「軍服」のような制服を着ることもあったと見られる「業者」が集めた朝鮮の場合、業者が「挺身隊」(強制的、しかし「法律を作っての」国民動員。しかし「志願」の形となる)に行くとだましたがために、「強制連行」だったと当事者たちが認識した可能性も高い。つまりもと慰安婦たちが「嘘」をついているというより(まったくないとは言い切れないにしても)、今はいないはずの「業者」たちが嘘をついた可能性も大きい当時は軍関係組織をしばしば挺身隊と呼んだのだ
7.日本軍と朝鮮人慰安婦
朝鮮人慰安婦は、場所によっては着物を着て日本名をつけられて働いた。つまり「日本人」女性に代わる存在だった。慰安婦たちには料金の区別がつけられていて、「日本人」が一番高く,その次が朝鮮人だったそんなに画一的ではない。本来なら巻き込まれないでいいはずの(日本を対象とした)「愛国」に朝鮮人も動員されたのである。その意味では朝鮮人慰安婦は日本の「植民地支配」が生んだ存在であり,その点で日本の「植民地支配」の責任が生じる。そして、慰安所に着くと最初に将校や軍医による強姦も多く、部隊移動中にも朝鮮人たちは「朝鮮人」であるゆえに、決まった性労働以外にも強姦されやすかった自分でも強姦されたと書いている 先の話と矛盾
同時に、「国家のために」集められた「軍慰安所」に居た場合は、構図的には敵を相手に「ともに闘う同志」の関係にあった。兵士の暴行などを上官が取りしまり、業者の搾取を軍が介入して管理する場合も多かったようだ。よい関与論発生
地域や時期にもよるが、慰安婦が、圧倒的多数を相手しなければならない過酷な体験をしたのは間違いない。同時に、基本的には兵士や業者の横暴から慰安婦たちを守るような規範もできていた。もちろんその規範が必ずしも厳しく守られたわけではなく、兵士たちはよく朝鮮人慰安婦によく暴行をふるい、注意程度の処罰しか受けなかったことも多かった。それなのに奴隷じゃないと
朝鮮人慰安婦はそのように総体的な民族差別の中にいた。朝鮮人慰安婦と日本軍人は恋愛も可能だったが、そのことを見ることが、宗主国・植民地出身という構図のなかの差別や搾取を無化することになってはならない。
朝鮮人慰安婦の一部は、最前線においても行動を共にしながら、銃弾の飛び交うような戦場の中で兵士のあくなき欲望の対象になり、銃撃や爆弾の犠牲になるような過酷な体験をした。つまり、たとえ契約を経てお金を稼いだとしても、朝鮮の女性たちをそのような境遇においたのは「植民地化」であった。したがって、朝鮮人慰安婦に対する日本の責任は、「戦争」責任以前に「植民地支配」責任として問われるべきである。
8、業者
軍が必要として集められたのは確かだが、拉致や嘘を軍が公式に許可したとする証言や資料は今のところみつかっていない。そして、嘘までついて強制的につれていったり、病気などの時も「強制的に」働かせたり、逃げないように監視したり、中絶させたのは、ほとんどの場合日本人や朝鮮人の「業者」だった。日本人業者の方が規模が大きく、朝鮮人業者の方が規模が小さかったように見える。
慰安婦たちの多くはは借金状態を抜け出せず自由廃業ができなかったがその直接の原因はこうした業者たちの搾取構造にある。
吉見教授は慰安婦に「居住」「廃業」などの自由がなかったというが、それは基本的には「業者」による拘束と戦場であるがための拘束であり、「軍人」に移動の自由がなかったのと同じケースと考えるべきであろう
またデタラメな
そしてもと慰安婦たちの身体に残っている傷跡も業者によってつけられた場合が多い。軍が暴行する場合ももちろん多かったが、少なくとも公式には禁じられていた。
つまり、「慰安婦」を巡っての「犯罪」——当時の法律に抵触する行為は、拉致・誘拐や人身売買であって、「慰安所利用」を「道徳的に」問題のある「罪」と捉えることは可能でも,当時の(法律に抵触する)「法的犯罪」と捕らえるのは難しい。慰安所利用」法的犯罪」と捕らえた議論があるわけか?
9.20万の少女
「20万」という数字は、日韓を合わせた、「国民動員」された「挺身隊」の数だったことが、1970年頃の韓国の新聞記事から推測可能だ。新聞は、日本人女性が15万,朝鮮人が5—6万、と言及している。こうした誤解も手伝ってその後そのまま「慰安婦」の数と理解されてきたものと考えられる。しかもその「慰安婦」の全てが必ずしも「軍が作った」「軍慰安所」にいたわけではないことはこれまで述べてきた通りである.
慰安婦になった人には「少女」がいなかったわけではないが、1960年代の韓国映画には朝鮮人学徒兵たちにおける慰安婦が成人だったことが分かる。
実際に証言を見ると十代前半のケースはむしろ少なく、当時の軍人たちにも「例外」な状況として受け止められていた。「慰安婦」と名乗り出た人の多くがまだ幼かった「少女」であったことを強調するのは、彼女たちがその「例外」のケースにいた人々と見るべきだろう。実際には、証言者の多くが、「他の人は自分より年上だった」と語ってもいる。売春業界に少女が連れ込まれるのは世界中にあることであり、そういう意味で少女が多かったことはありうるが、それは日本軍の意思というより、業者の意思によるものと考えるべきである。慰安婦の都市は一概に推定できないが、証言集や資料による限り、その平均年齢は、20才以上と考えられる
10、敗戦後の帰還
慰安婦が敗戦後に帰国できなかったのは、戦場での爆撃の犠牲になった場合や玉砕に巻き込まれた場合が多かった故のことと考えられる。中国にいた慰安婦たちは、いわゆる「引揚げ者」たちの受難を同じく経験していて,場所によっては帰ること自体が難しく、その道のりで犠牲になった場合もあると考えられる。そのほかは帰ってきたかその地に残ったものと見られる。敗戦後に「置き去り」にしたことに、動員した軍に責任があるのは言うまでもないが、それでも慰安婦たちの「おきざり」に対するうらみは、日本軍より「業者」に向かう場合が多い。軍と行動を共にした場合、負ける戦闘のさなかでのことであって、その状況は様々で、軍が帰国を助けた場合もあった。基本無知
11、1990年代の謝罪と補償
1990年代に日本が「慰安婦」と名乗り出た人々に「謝罪と補償」をすべく作った「アジア女性基金」は、被害者たちが要求した「国会立法」を経たものではなかったが、当時の閣僚たちの合意に基づいて作られたものだった。国会では立法を進めた議員たちもいたが、韓国の場合、1965年の日韓条約で国家間賠償が終わったことと「強制連行」の有無が議論の焦点となって法案を通すにはいたらなかった。「基金」は「国会」は通さなかったが、「政府」閣僚たちが合意してやった「謝罪と補償」である。それは「国会立法」を主張する人たちに「責任回避」の手段と非難されたが、1965年の国家間条約で個人補償は終わっているので国家賠償はできないと思った日本政府が、「法的責任」は存在しないと考えながらもなお、「道義的責任」を取る
として行った、いわば「責任を取るための手段」だった。国民の募金でまかなうと言われていたが、300万円に当たる医療福祉補助費も出されていて、名前こそ「補償金」でないが、実際に慰安婦たちにわたった補償金の半分以上が国庫金から出されている。最終的には事業費の89パーセントが国庫金からまかなわれていた。そういう意味では「基金」は、単なる「 民間基金」ではなく、日本政府と国民が心を合わせて行った「謝罪と補償」の試みであった。もちろんこのとき、日本政府は、基金への関与をより明確に言えばよかったであろう。
12、1965年の過去清算について
1965年の日韓条約は1952年のサンフランシスコ講和条約に基づいての条約だったので、「戦争」の事後処理をめぐる条約だった。「植民地支配」という過去清算に関する条約ではなかったのである。条約の文面にひとことも「植民地支配」に対する謝罪の言葉が入ってないのはそのためである。実際徴用などに関しての「補償」も、中日戦争後のことに限っていた。しかし朝鮮は日本の戦争相手国ではなく、むしろいっしょに闘った立場だったので、この補償は、恩給などに当たる、いわばもと「日本国民」としてのものだった。突然両国が引き離されることになったための、貯金やその他を含む金銭的事後処理が中心だったのである。
そして日本は「個人の請求権」は個別に請求できるようにしたほうがいいと言っていた。しかし韓国側は、北朝鮮を意識して、韓半島唯一の「国家」としての韓国が代わりにもらおうとしてその提案を拒否した。つまり「韓国」だけが補償を請求できる正統性を認めてもらおうとしたのには(チャン・バクチン)、厳しい冷戦時代のさ中にいたという歴史的経緯がある。
当初韓国側は「植民地支配」による被害について(人命損失など)も請求しようとした。最終的にそれが削除された理由は明らかでないが,おそらく今でも続いている論争——「植民地支配は合法」、つまり韓国の意志でやったことだというような議論があってのことかもしれない。確かに当時においてはほかの元帝国も「植民地支配」に関して謝罪したことはなく、それは時代的思考の限界だった。つまり、1965年の条約は植民地支配についての謝罪にはなっていないが、それは冷戦下にあって元帝国諸国がそのような事に関して謝罪するような発想をするような時代に至っていなかったこと、そして元植民地側も冷戦時代のあおりを受けて、自ら「過去清算」を急いでしまったためのことだった。
13、1910年の合併条約について
さらにさかのぼって1910年の合併条約自体が「強制的」なもので「不法」だったとする議論もある。そしてこの時の条約が「不法」だとすると当然日本に「植民地支配」についての「法的責任」が生じることになる。しかし、たとえ少数が率いてやった事が明らかでも、それが「条約」という(当時における)「法的手続き」を通してのものだった以上、このことを「不法」とするのは倫理的には正しくても現実的には無理がある。それはアメリカやイギリスなどやはり植民地を作った大国の承認を得てやったことであって、彼らだけの「法」に基づくものだったという意味でなら「不法」と言えても、ともかくも「合併」を韓国が承認した文面が存在する限り、残念ながらそのことを「不法」とは言えなくなるという現実もある。
もっとも、国民のほとんどに意見が聞かれたわけでも知らされていたわけでもない「合併」は、「ほとんどの朝鮮人」の了解や承認を得ていないという点ではほんとうの意味では「了承」したとは言えない。しかし国の代表がそうしてしまった時点で、不服でも、「不法」といえないことは、政治的・時代的限界と考えるべきであろう。そのような「法」に問題があったことを後世の人々が認めるのなら(すでに90年代の日本の謝罪はそれを間接的に認めたことにはなる)、たとえ「不法」でなくても、道義的に問題があったとみなすことは可能である。「法」にかかわらず、日本に植民地支配の責任があることは間違いない。
14,「法」の問題
韓国政府や支援団体が求めているのは慰安婦募集と慰安所使用に関わることを「不法」と認めて「賠償」せよとするものである(日本の支援者の多くもそれを主張している)。しかし、当時において日本内で「売春」が「不法」と認められていなかった以上、そのことを「不法」とみなすことは無理がある。たとえ国際的に不法と見なし始めていた時期だったとしても、である。当時は性暴力さえもまだ「法」で処罰することはしていなかった時代だったのであり、だからこそ男たちは罪の意識もなく強姦を繰り返したのである。
しかし「人身売買」は当時においても「不法」と認められていた。問題は、その人身売買を日本軍が指示したかどうかにある。実際に人身売買であることを知りながらも黙認したふしはある。しかし、日本軍は詐欺や誘拐によって連れてこられた場合返したり、別の就職先を斡旋するように業者に指示したケースがあり、軍として詐欺や誘拐を組織として容認したとは言いがたい。それでも、日本が宗主国として、植民地の女性を差別と強姦と搾取の対象にしたのは間違いない
15、再び「アジア女性基金」について
そういう意味では90年代の「道義的責任」は、そうは意識しなかったにしても、まさにそこを突いての「謝罪と補償」だった。最初に声をあげた朝鮮人慰安婦が「植民地支配」による存在ということも認識されていて、それに対する補償だったからである。
すでにイタリアやイギリスも植民地支配に関して謝罪をしたことがある。もっとも、日本も,細川首相や村山首相が行った。しかし、最初は「慰安婦問題」を「植民地支配」と捉えていたのが、のちに別の国の人たちが現れることになったことが影響して、普遍的な「女性の問題」と捉えられることになったために、そのような捉え方はやがて消えてしまった。
しかし、現在この問題で、ほかの国・地域は「アジア女性基金」を受け入れて一応解決されたことになっている。そして現在慰安婦問題を「不法」だったとして「賠償」を求めているのは「韓国人慰安婦」だけなので、「日韓問題」として捉え直す必要がある。
そして、あらためてそうした状況を念頭におきながらしかるべき解決を考えるべきであろう。オランダや中国などほかの国といっしょに考える「女性の人権」問題との捉え方だけでは、朝鮮人慰安婦の特殊性が見えてこない。そして、家父長制の中の犠牲者と捉える時、真なる「女性人権」の問題として向き合いなおすことができるだろう。
日本の一部の人はほかの国々もやったとして責任を回避しようとするのではなく、オランダを始め世界の「元帝国」に、「植民地支配」が起こした問題としての自覚と反省を呼びかけるべきだ。そうして始めて、アメリカもイギリスもオランダもこの問題を「自国」の問題として向き合うことができるだろう。それらの国の欲望のためにも、自国や他国の女性たちは動員されていた。
16、「性奴隷」について
朝鮮人慰安婦たちは「準軍人」のような役割もさせられていた。彼女たちの境遇が悲惨だったのはまぎれもない事実であるが、監禁し、強制にちかい労働をさせた主体は、軍のみならず業者でもある。自由がなかったという意味での彼女たちの「奴隷性」
は、まずは「主人」と呼ばれた業者との関係で成立しすると考えるべきだ。
同時に、彼女たちは、国家の必要によって過酷な労働を強いられ、命さえも(戦場、病気、過労働)担保にしたという意味では「国家の奴隷」でもある。移動の自由も廃業の自由もさらに命を守る自由もないという意味で、軍人と変わらない。朝鮮人軍人には少ないながら一定の補償金が支払われた。それは彼らを守る法が存在したからである。そして、女性たちにはそのような『法』によって守られなかったのは近代国家システムが男性中心主義的だったからである。
17、河野談話
河野談話は「自分の意志に反して」慰安婦になったことを認めているのであって物理的な「強制連行」を認めているわけではない。つまり,連れていった過程が自分の意志ではなかったことと慰安所での性労働が彼女たちの選択ではなかったことに触れていて、物理的ではなく構造的な強制性を認めている。それは、朝鮮人の場合、たとえ自発的に行ったように見えてもそれが植民地支配によってもたらされたことであることを正確に認めている言葉でもあった。つまり、河野談話見直し派が主張しているような、いわゆる「強制性」を認めたものではない。しかも管理をしたという意味では「官憲が関与」したのは事実なので、そうである限り河野談話を見直す必要はない。
18、解決をめぐる葛藤
日本政府が作った「基金」が「民間」のものと認識されたのは、まずは、マスコミなどの報道にもよるが、新たな補償が1965年の条約に抵触することを気にした政府が、基金に深く関与していることを十分に説明しなかったことに第一の原因がある。しかし、「仕方のない次善策」として受け止める人たちもいる中で「責任を回避するもの」と強く非難し,以後今日に至るまでこの問題で日本政府を非難している人たちの一部は、国会立法だけが「日本社会の改革」につながると考えていた。それは、歴史認識をめぐる対立がポスト冷戦時代を迎えて行なわれ、過去の歴史に対する考え方でもって現在のアイデンティティを問われる形になったからである。
そして、正義のためのはずだったその主張は、慰安婦像と「強制連行」をめぐる理解において反対派と接点を見いだす努力を怠ったがために、結果として 、慰安婦問題に反発するひとたちが日本内にたくさん増えてしまった。
支援者たちは、天皇を犯罪者にするような国際裁判も開いたが、理念としてはいいとしても、「運動」としては広く「日本国民の合意」を得るのではない逆の方向へ行くものだったと言う点で、効果的だったとはいいにくい。2000年代以降、日本で「嫌韓流」に始まったへイトスピーチの根っこには左翼や慰安婦問題への嫌悪があった。
19、世界の意見
運動家たちは2000年代以降に日本政府を説得することよりも世界に訴えて日本を圧迫するやり方に出た。そしてKumarawasumi報告書をはじめ、数々の国連報告書のほとんどは 「20万の少女が強制的に連れて行かれ性奴隷として働かされ、敗戦後もほとんど虐殺された」と考えている。欧米の議会の決議もそれらの報告書を参考にしているが、これまで見てきたように、世界の慰安婦問題への理解は、必ずしも正しいわけではない。
国連ではオランダの女性も証言していて、オランダのケースは確かに「レイプセンター」の言葉に近いものだった。しかしオランダの女性は朝鮮人や日本人慰安婦とはその立ち位置が根本的に異なる。オランダの女性が被害を受けたのは、彼女たちがオランダが植民地にしたインドネシアに暮らしていたためで、植民地をアジアに多く持っていた、オランダをはじめとする欧米諸国が、日本だけを非難するのも必ずしも公平とは言えない。
20、帝国と慰安婦
韓国や沖縄基地をはじめ米軍が基地をおいているところでは今でも遠い地に送られた兵士たちを「慰安」すべきとされている女性たちがいる。つまり、戦後直後の日本や韓国戦争での朝鮮戦争当時やその後の韓国がそうだったように、「軍隊」は今でも「慰安婦」を作り続けている。日本軍の慰安婦と違うのは、「国家のため」と意識させられているかどうか、そして平時(しかし戦争に待機している)か戦時かの違いだけである。
それらの「基地」は、かつて戦争や冷戦のためにおかれ、その状態を維持し続けた。そして今やアメリカこそが日本や韓国に慰安婦を作り続けているのである。もちろん日本や韓国はそれを提供し黙認している。
かつて国家が政治経済的に勢力範囲を広げるべく「帝国」を作ったように、現在でも特定国家の世界掌握勢力は存在する。その中心にあるアメリカが、慰安婦問題に関して日本を非難する決議を出し続けているのは、アイロニーと言うほかない。
弱者のために闘ってきたはずのリベラル勢力は、そうは意図しなかったはずだが、日韓の葛藤を維持することで韓国の軍事化や保守化を進めた側面がある。日本を意識したものであるかのように見せかけながら、実は北朝鮮を意識した軍備増強が行われているからである。
したがって、支援者たちは冷戦的思考を乗り越えてこの問題を考え、否定者は慰安婦の悲惨さに気づいてほしい。そして日本内の国民的「合意」を見いだしてほしいものだ。
まずはそれに向けて、意見が対立する人たちで議論し、接点を作れるように日韓協議体を政府主導で作るのが望ましい。「合意」を前提にし、
支援団体のほかに慰安婦本人(家族)や第三の識者を入れるのは必須である。密室議論ではなくメディアなどに聞いてもらうことで公論化し、この問題に関して豊富な知識をもつようになった両国国民に考えてもらい、納得してもらう必要があるからだ。
最終的には、その結果に基づいて、植民地氏支配の結果としての認識を盛り込み、その他の犠牲者にも触れた<国会決議>ができるのが望ましい。
それには、
1、1990年代の基金の試みのやり直し、つまり国民を代表する国会が主体的に解決
2、欧米の決議を受け止めつつの批判的応答
3、「戦後日本」との自己認識を「帝国後日本」と捉えなおす
この三つの意味がある。
必ずしも今年でなくとも、時間をかけてじっくり議論し、いつかそうした日が来るのを望みたい。
ーーーーーーーー
<秦・吉見議論について>
*秦郁彦教授の意見について
1)
売春婦としてのみ見なしているー愛国した存在、特に軍が運営した場合は「準軍人」として支えたことが看過されている。たとえ売春婦としても悲惨さは変わらない。お金を稼ぎ、楽しかったとすれば、「軍のために働く存在だったから」ための強制された誇りゆえ。お金を稼いだ人だけに注目する傾向が強い。慰安婦たちが楽しかったとすれば、それはそれだけつらい生活をしのぐための自己欺瞞的誇りの結果と見るべきだ。
2)
業者を朝鮮人だけと考えているが、日本人も多かったと見える。
3)
朝鮮人だけの責任にしたがっている—需要を作った日本国家の責任を考えない。
4)
業者が軍に働きかけた境遇だけではない。業者は軍属の地位を与えられることもあった。
5)
女性たちをチェックしたのはそういう「商品」を利用しないようにしたことと考えられるが、契約書があれば問題がないという主張になる。本人が認知せずに軍を手伝うことと考えた場合もあるのだから、契約書があれば問題がないとはいえない。
6)
運動が政治活動になった動きがないわけではないが、それは参加者の一部。ほとんどは単に善意で動いたと考えるべきだ。
*吉見義昭教授の意見について
1)
`強制連行`を、構造的な強制性と捉えるのは正しいが、それを官憲がつれていったことと理解する人が多い以上、その違いは正確に語るべき。
2)
性奴隷的側面があるのは確かだが、直接に自由を拘束したのは業者であり国家。売春婦にも奴隷性があることを看過している。
3)
世界が慰安婦問題で韓国の主張を認めたことは、必ずしも支援団体の主張が正しいことを証明しない。
4)
慰安婦の生活困難は業者の搾取によるもの。インフレだけではない。
5)
オランダとの関係における違いを看過。
6)
業者には純粋に民間も存在。軍属のみではない。前線に行くひとのみ。様々な慰安所があるのに軍運営のものに限定して語っている。
7)
責任—人身売買の主体は業者なのに業者の責任は語られない。国家が加担したのは事実だが、知っていて指示し、助けた(船を使っただけで人身売買を助けたと言っていいかどうか)のと、知って黙認したのと知らずに利用したのは違う。時期によって場所によって違っていたはず。それを全て軍の責任としている。
8)
構造的強制性の中にある自発性を看過。人身売買だから性奴隷というが,そうでないケースもあるし、何よりも慰安婦の「主人」は業者だった。
*どちらも慰安婦の一面だけど見ようとする傾向が強い。そうである限り「歴史学者」の議論であっても接点を見いだせないだろう。
*「被害」かそうでないかだけを強調しているが、「植民地」はその両方を持つ存在だった。
*考えるべきは、国家(帝国)欲望に動員された人々の不幸を誰が考え、償うかということ。兵士もその一人。慰安婦も。そこに加担した民間の責任(定住者たち、大人たち)も考える。
*この問題が難しいのは体験が異なるのに、「補償」は一つの形にするほかないということ。そのことを「矛盾」として引き受ける必要がある。
*慰安婦は「売春婦」も無垢な「少女」の面も併せ持っていて、そのような矛盾こそが「植民地の矛盾」だった。今では変わって来ている側面もあるが、慰安婦の役割は基本的に社会の弱者に担わされるという点で階級問題であり、家父長制、そして性をまで戦争に利用する国家の問題である。その背景には貧困問題がある。
そうした社会・時代の中で、彼女たちは自分の身体と命の「主人」ではありえなかった。この問題を否定してきた人も、支援してきた人も「売春」差別意識を持っていたといえる。歴史認識や「少女像」をめぐる闘いは、そうした側面を持つのであって、両極であるほどその意識は強い。それがポスト冷戦時代の、過去をめぐる左右の歴史認識の闘いと結びついたことが今日の混乱を招いた。
そうした背景を知り、そのような差別と支配の時代をすこしでも乗り越えることこそが、慰安婦問題を考えることの意味になるべきだろう。

2015年6月5日金曜日

公使館領事館の給与調査

外務省の費用の中に領事館附駐在武官の項目は存在していない。


① 公使館領事館費用条例に定められた俸給を見る




署名原本・明治二十四年・勅令第三十三号・公使館領事館費用条例制定無任所外交官年俸、交際官並領事費用条例廃止
階層
レファレンスコード
A03020096500


作成者名称
内閣
資料作成年月日
明治24年03月31日


内容
朕茲ニ公使館領事館費用条例ヲ裁可ス 睦仁 外務大臣子爵青木周藏 勅令第三十三号 公使館領事館費用条例 第一章俸給 第一条 外交官、領事官、公使館書記生及領事館書記生ノ俸給ハ分テ本俸在勤俸及加俸ノ三種トス 第二条 外交官及領事官ノ本俸ハ明治十九年勅令第六号及明治二十三年勅令第三十六号高等官官等俸給令ニ依ル但左ノ場合ニ於テハ其半額ヲ給スルモノトス 一賜暇帰朝ヲ許サレタル者ニシテ帰朝後六箇月ヲ過キタルトキ 二養痾ノ為帰朝ヲ許サレタル者ニシテ帰朝後三箇月ヲ過キタルトキ 三前両項ノ期限内ニ於テ外国在勤ヲ免セラレタルトキ 四無任所外交官又ハ無任所領事官ニシテ特ニ省務ニ従事スヘキコトヲ命セラレサルトキ 第三条



給与表









② 明治二十六年の公使館領事館費用条例改正を見る



件名標題(日本語)
御署名原本・明治二十六年・勅令第百七十一号・公使館領事館費用条例改正
階層
レファレンスコード
A03020154200


作成者名称
内閣
資料作成年月日
明治26年10月30日


内容
朕公使館領事館費用条例ノ改正ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁 外務大臣陸奥宗光 勅令第百七十一号 公使館領事館費用条例 第一章 俸給 第一条 外交官、領事官、公使館書記生及領事館書記生ノ俸給ハ本俸、在勤俸及加俸ノ三種トス 第二条 外交官及領事官ノ本俸ヲ定ムルコト左ノ如シ 特命全権公使 年俸(一級 四千円 二級 三千五百円 弁理公使 年俸 三千円 代理公使 公使館一等書記官 総領事 年俸 一級 二千五百円 二級 二千二百円 三級 二千円 公使館二等書記官 一等領事 年俸 一級 千八百円 二級 千六百円 三級 千四百円 四級 千二百円 公使館三等書記官 二等領事 年俸 一級 千円 二級 九百円 三級











大正七年勅令第二百二十二号電信ニ関スル事務ニ従事セシムル為外務省ニ臨時職員増置ノ件及同年勅令第三百二十九号外務省ニ西比利亜ニ関スル事務ニ従事スル臨時職員増置ノ件ヲ廃止シ○外交官及領事官官制○在外公館職員定員令中ヲ改正ス
階層
レファレンスコード
A13100407000


作成者名称
内閣總理大臣||樞密院副議長子爵清浦奎吾||外務大臣子爵内田康哉
資料作成年月日
大正9年8月21日~大正9年10月22日
記述単位の年代域
大正9年


内容
外甲七六ノ四 大正九年九月三十日 外交官及領事官官制中改正ノ件 右枢密院御諮詢ヲ経テ御下府ニ付同院上奏ノ通公布ノ儀奏請相成然ルヘシ 上諭案 朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ外交官及領事官官制中改正ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 御名 御璽 大正九年十月二十二日 内閣総理大臣 外務大臣 (上奏ノ通) 臣等外交官及領事官官制中改正ノ件諮詢ノ命ヲ恪ミ本月二十九日ヲ以テ審議ヲ尽シ之ヲ可決セリ乃チ謹テ上奏シ更ニ聖明ノ採択ヲ仰ク 大正九年九月二十九日 枢密院副議長子爵臣清浦奎吾 勅令第四百九十四号 外交官及領事官官制中左ノ通改正ス 第十条中「公使館領事館費用条例」ヲ「在外公館費用条例」ニ、「外務省政務局長又ハ外務省通商局長」ヲ「又ハ外務省各局長」ニ改ム







外務省の費用の中に領事館附駐在武官の項目は存在していない。




外国駐在陸軍武官の給与

さーて、給与や経費はどうなってるんだろうね?もし外務省から出ているなら、外務省記録にあるはずだが、とりあえず「駐在陸軍武官」で<アジア歴史資料センター>を検索。

こんなんでました。

外国駐在陸軍武官ノ旅費ニ関スル件ヲ定ム大正6年~大正7年




内閣
陸甲一五 大正七年四月二十五日 別紙大蔵陸軍両大臣請議外国駐在陸軍武
官ノ旅費ニ関スル件ヲ審査スルニ右ハ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決定
セラレ可然ト認ム 勅令案 呈案附箋ノ件 参照 外国駐在陸軍武官給与令 明治
三十年六月二十二日勅令第二百十六号陸、大臣副署 改正 三六年第一二〇号
、四一年第一六二号、四二年第一六七号、四三年第一四八号 朕外国駐在軍武
官給与令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 外国駐在陸軍武官給与令 第一条 外国
駐在ヲ命セラレタル陸軍武官ノ諸給与ハ陸軍給与令ニ於ヲ定ムル第一表ノ俸給
及宅料ヲスルノ外本令ノ定ムル所ニ依ル 第二条 本邦出発ニ際シテハ出発手
当、本邦ト駐在国間往復ノ為ニハ旅次手当外国駐在中ハ駐在手当ヲ給ス





さて、外国駐在陸軍武官給与令(勅令第二百十六号) を探ってみよう。


御署名原本・明治三十年・勅令第二百十六号・外国駐在陸軍武官給与令制定外国駐在視察陸軍武官給与令廃止

内閣
明治30年06月19日
朕外国駐在陸軍武官給与令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁 明治三十年六月
十九日 陸軍大臣子爵高嶋鞆之助 勅令第二百十六号 外国駐在陸軍武官給与
 第一条 外国駐在ヲ命セラレタル陸軍武官ノ諸給与ハ陸軍給与令ニ於テ定ム
ル所ノ現役俸職務俸及宅料ヲ給スルノ外本令ノ定ムル所ニ依ル 第二条 本邦出
発ニ際シテハ出発手当帰朝ニ際シテハ帰朝手当、本邦ト駐在国間往復ノ為ニハ
旅次手当外国駐在中ハ駐在手当ヲ給ス 第三条 外国駐在中乗馬ヲ要スル者ニ
ハ馬匹ヲ貸与シ馬飼料ヲ給ス但シ借馬ヲ以テ応用スルトキハ其ノ実費ヲ給ス 第
四条 任務上必用ノ事項調査ノ為メ@ハ駐在国軍隊等ノ演習ニ際シ駐在地ヲ離
ルル七英里以上ノ地ニ派遣シ若ハ移転セシムルトキハ駐在手当ノ外派遣手当及
汽車料、舩舶料、車馬料ノ実費ヲ給ス 第五条 出発手当@朝手当旅次手当駐
在手当派遣手当及馬飼料ノ金額ハ別表ニ依ル

いろんな手当を出すよ」と言っている。そして

「陸軍武官ノ諸給与ハ陸軍給与令ニ於テ定ムル所ノ現役俸職務俸及宅料ヲ給スルノ外本令ノ定ムル所ニ依ル」


という。




御署名原本・明治三十一年・勅令第百七十七号・海外在勤外交官領事官等
臨時手当給与ノ件



組織歴/履歴
内閣
内容
朕海外ニ在勤スル外交官領事官等ニ臨時手当給与ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公
布セシム 睦仁 明治三十一年七月二十七日 外務大臣伯爵大隈重信 勅令
第百七十七号 海外ニ在勤スル外交官領事官貿易事務官公使館通訳官外
務書記生外務通訳生警部及巡査ニシテ其ノ在勤地ニ於テ戦時若ハ事変ニ
際会スルトキハ其ノ継続中在勤俸年額又ハ在勤月手当ノ十分ノ五ニ相当ス
ル金額以内ヲ手当トシテ給与スルコトヲ得 本令手当金支給方ハ明治二十六
年勅令第百七十一号公使館領事館費用条例中在勤俸支給ノ例ニ依ル



これに対して外務省では


御署名原本・明治二十七年・勅令第百九十七号・朝鮮国在勤ノ外交官及領事
官以下ニ臨時手当給与


内閣
明治27年12月02日


内容
朕日清両国間交戦中朝鮮国在勤ノ外交官及領事官以下ニ臨時手当ヲ給与
スルノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁 外務大臣子爵陸奥宗光 勅令
第百九十七号 日清両国間交戦中朝鮮国ニ在勤スル外交官公使館書記生
領事官及領事館書記生ニハ其ノ在勤俸年額十分ノ三ニ相当スル金額以
内ヲ手当トシテ臨時給与スルコトヲ得 朝鮮国ニ在勤スル警部巡査ニハ前項
ニ準シ其ノ在勤月手当十分ノ三ニ相当スル金額以内ヲ手当トシテ臨時給与
スルコトヲ得 本令手当金支給方ハ明治二十六年勅令第百七十一号公使館
領事館費用条例中在勤俸支給ノ例ニ依ル





在外公館費用条例中ヲ改正ス


外務大臣子爵内田康哉||内閣總理大臣
大正8年4月4日~大正8年5月23日


外甲一八 大正八年五月二十三日 別紙外務大臣請議氏外公館費用条例中改
正ノ件ヲ審査スルニ右ハ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決定セラレ可然ト認
ム 勅令案 呈案附箋ノ通 参照 在外公館費用条例 明治二十六年四月 勅令第
百七十一号 第一章 俸給 第一条 外交官、領事官、外務書記生ノ俸給ハ本俸、
在勤俸及加俸ノ三種トス 第二条 [削除] 第三条 待命外交官及待命領事官ニハ
其ノ本俸三分ノ一以内ヲ給スルコトヲ得但シ臨時外務省ノ事務ニ従事スルコトヲ命
セラレタル者ニハ九人ヲ限リ其ノ本俸全額以内ヲ給スルコトヲ得 第四条 [削除]
 第五条 シ勤俸ハ外国在勤ノ場合ニ於テ本俸ノ外別表第一号及第二号ニ依リ任
所到著ノ翌日ヨリ給ス但シ領事館分館在勤ヲ命セラレタル副領事及領事官補




陸軍給与令を読んでおく





『陸軍給与全書』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798040

から


【陸軍給与令】=陸達222が定める「俸給」に関して

明治32年12月1日から施行やがて改正され【陸軍給与令細則】として36年12月1日から施行

第4条 俸給 三種とす
1、俸給 準士官以上に給する
2、給料 下士兵卒に
3、手当金 諸生徒に

第5条
準士官以上の現役の者の俸給は表に
停職中は半額

第6条
在職の者には職務俸 第2表
参謀総長は大将の年額を給し

加給するのは第8条

下士兵卒に下宿加俸
●憲兵下士上等兵に憲兵加俸
など

宅料

は18条から
在職準士官以上に

糧料
21条から

被服
29条から

馬匹
39条から






【陸軍給与全書】
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798040

【陸軍給与令】の表













2015年6月1日月曜日

任免 命課 進退に関する辞令書の一部省略及官報陸軍命課通報等登載区分並辞令伝達要領制定の件


この資料は
陸軍の人事局補任課が法務官の退職などと合わせ在外
公館附武官同補佐官の命免も

「官報登載のみに留め辞令書を交付せざるもの」
に決定した。

という資料である。



任免 命課 進退に関する辞令書の一部省略及官報陸軍命課通報等登載区分並辞令伝達要領制定の件

昭和12年「密大日記」第1冊




レファレンスコード
C01007507100


作成者名称
人事局補任課



昭和11年~12年


密受第一二五六号

 陸密
任免、命課、進退ニ関スル辞令書ノ一部省略及官報、陸軍命課通報等ノ登載区分並ニ辞令傳達要領左ノ通定ム
昭和12年7月 日
陸軍大臣 杉山元 
陸密第七六〇号 昭和12年7月29日

左記ハ別紙ノ通 陸普 陸軍命課通報要領等発止ノ件 副官ヨリ陸軍一般ヘ牒按 (甲) 任免、命課、進退ニ関スル辞令書ノ一部省略及官報、陸軍命課通報等ノ登載区分並ニ辞令傳達要領制定ニ伴ヒ左記規定ハ自然消滅ノ義ト承知相成度 陸普第四四八四号 昭和12年7月29日


p1










「在外公館附武官同補佐官」と書かれている。

これは陸軍の人事局補任課が法務官の退職などと合わせ在外
公館附武官同補佐官の命免も

「官報登載のみに留め辞令書を交付せざるもの」
に決定したのである。




                  
p2





p9




p10