2020年1月20日月曜日

『反日種族主義』批判① 「志願兵は自発的か?」


    

   『反日種族主義』批判「志願兵は自発的か?」

1、日本における「志願兵強制」歴史研究
志願兵について、日本では1973年11月の季刊『現代史』第3号に金基鳳の回想記「私と1945年8月15日」が発表された。「・・・志願兵の資格を持っていながら「志願」しないのは認識不足な非国民か「不逞のやから」の扇動の影響と決めつけていた」という。

この「志願しない者は非国民」というフレーズは、総督府の機関誌である『毎日新報』が1943年11月19日に書いているフレーズである。


               樋口雄一『皇軍兵士にされた朝鮮人』p82より抜粋

次号季刊『現代史』第4号は「ある朝鮮人元兵士の談話」が掲載された。これには様々な方面からかかる圧力が書かれていた。
(大分県で)「(中学)在学中に協和会支部の会長、町長、学校長、警察、特高、町会議員、部落会長、元親方の南さんとか、おえら方が家に出入りしてこぞって志願をすすめるわけですよ。・・・(略)・・・そういう雰囲気がだんだん強くなってきて、結局それに押し切られたというか、説き伏せられたという形ですね」
季刊『現代史』第6号(1975年)は「朝鮮の志願兵制はじまる」というタイトルで資料を集めている。
こうした証言と資料収集を受けて論文として、君島和彦『朝鮮における戦争動員体制の展開過程』(『日本ファシズムと東アジア』(1977)所収)や宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」(『朝鮮歴史論集下巻』(1979)所収)が書かれている。とりたてて「強制か?自発的か?」というテーマだけを追及した論文ではないが、当初から「警察を中心とした募集時の強制勧誘」(君島)「権力の側からの徹底的強制」(宮田)が、それぞれ資料を元に言及されている。宮田が強制の根拠史料としたのは、「特高月報」に記録される「志願兵制度に対する朝鮮人の動向」や「帝国議会貴族院委員会」(1943年2月26日)等である。
最近、金庾毘が書いた「戦時期朝鮮における朝鮮人陸軍特別志願兵ー日本軍内における進級と差別問題」(『朝鮮史研究会論文集 (57) 2019-10』所収)も特に「強制」をテーマとした論文ではないが、 p.227の脚注で、鄭安基(チョンアンギ)とブランドン・パーマーの論文を批判しているので見ておこう。
チョンアンギは『反日種族主義』で、「特別志願兵 彼らは誰なのか!」を書いた人である。
該当部分をそのまま掲載する。
以下、引用
「(5)ブランドン・パーマー著、塩谷紘訳『検証日本統治下朝鮮の戦時動員1937-1945 』草思社、2014年、チョン・アンギ「・・・」『精神文化研究』41(2)、韓国学中央研究院、2018年6月(韓国語)。
しかしこれらの研究は、その論拠や資料分析などに多少問題がある研究である。例えばブランドンの研究は、李昇燁が指摘するように(李昇燁 「ブランドン・パーマー(塩谷紘訳)『検証日本統治下朝鮮の戦時動員』(草思社、2014年)7」佛教大学歴史学部論集第7号、2017年3月)、史料の内容の恣意的な解釈、史料の理解不足、そして立証性等に問題がある研究である。
またチョンの研究は、朝鮮人志願兵制度は「朝鮮人社会の積極的動員協力がなければ決して成立できない、自発的動員を特徴」とし、志願兵が「志願の可否はやっぱり志願者個人の赤裸々な欲望を反映した多様な選択肢の中の一つ」であり、志願兵は強制させられたのではなく、その「欲望」により自発的に志願した存在だと主張している。
またチョンは小磯の「回顧」を引用し、「警察官の勧誘と説得が激しかった」としながらも「志願を強制する具体的な手段が欠如」していると主張しているが、彼は官憲の強制によって志願させられた志願兵の証言を無視している他、植民地朝鮮における総督府の大衆統制組織と言われる国民精神総動員朝鮮連盟(のち国民総力朝鮮連盟)と末端組織の愛国班による志願の割り当てや志願の慫慂を視野に入れていない。また総督府機関紙と言われる『毎日新(申)報』などの引用に当たっては、史料批判のないまま引用している。志願者の一部の動機が自発的な志願であったとしても、果たして志願を簡単に「欲望」により「志願」した自発的存在だと定義できるかは疑問である。」
引用終

*李昇燁の「ブランドン・パーマー(塩谷紘訳)『検証日本統治下朝鮮の戦時動員』(草思社、2014年)7」はネットで読むことができる。



              2、史料 

 志願兵制度に圧迫や強制があったという史料を読む


朝鮮・陸軍特別志願兵
年度
志願者数
入所者数
1938
2,946
406
1939
12,348
613
1940
84,443
3,060
1941
144,743
3,208
1942
254,273
4,077
1943
303,294
6,300
内務省管理局資料 1944

①公文書から読み取る・・・情報を得ることのできる立場の人たちによる「圧力」「強制」の言及

a)
史料名:「陸軍省業務日誌摘録」1941年4月16日金原節三 (前篇 その3のイ)
陸軍省局長会報での武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長の対話

武藤章軍務局長 「(略) 朝鮮の徴兵制度。及び台湾は志願兵制度をしく要望高し。これは政治上問題あるをもって検討いたし度。」
田中隆吉兵務局長 「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し。従って徴兵制の施行は多いに考慮を要す。」
「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し」・・・これを陸軍省のトップクラスが語っていることの意味は大きい。
一般人は、戦時下の出来ごとについて統制された情報以外はほとんど知らないが、陸軍省のトップクラスにもなれば統制されていない様々な情報を知ることができたからだ。

金原節三プロフィール   1901~1976
1926陸軍軍医学校卒業
以後1943まで陸軍省医務局医事課員として勤務、課長、大佐となる
1943,9 近衛第2師団軍医部長としてスマトラへ、敗戦時はインドシナ
敗戦後、陸上自衛隊へ
『陸軍省業務日誌摘録』は、35冊からなり、前半が医務局医事課員としての記録であり、後半が軍医部長としての記録である。
原本は陸上自衛隊衛生学校蔵で一部はまだ公開されていない。

この資料は、慰安婦問題では知られていたが(『季刊戦争責任研究創刊号』の吉見論文に初出)、志願兵関係の研究論文では使われたことはない。ネットでは「河野談話を守る会のブログ」に言及されている。

b)
議会における答弁 
貴族院 予算委員第三分科会(内務省、文部省、厚生省)昭和18年02月26日速記録

水野錬太郎議員の質問に答えて


政府委員田中武雄 「・・・略・・・それから次は創氏の問題、志願兵問題等に付きまして、官邊の強制と云ふやうなことに関してでございまするが、是は私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りましたので、諮らずも自分がさう云ったやうなことに対しまして責任の地位に立ちましたので、さう云ったことに対しまして間違って居ることがあるならば是正をして参りたいと考へまして、色々事実の真相を調べて見たのであります、必ずしも絶対にさう云ふことがなかったとは申し上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるやうであります、併し将来は左様なことのないやうに、適正に運営して参りたいと斯様に存じて居ります、特に志願兵制度等に付きましては、総督の言明でありまして、新聞に何十萬志願者があったと云ふやうなことを余りに書くことは、一面に於いて由なき宣伝のやうにも見えるし、又それが為に道の競争と云ふやうな心理を誘発する虞れもあるから、何倍にならうがそんなことは差し支えないから、一切新聞に書かすなと云ふことを厳命されまして、確か今年は何倍あったと云ふやうなことは新聞には一切書かさなかったと記憶を致して居ります。左様な状況でありまするので、将来とも一層留意を致したいと思ひます、次は一つ速記を止めて戴きたい」

主査:男爵山川建 「速記を止めて」


創氏改名や志願兵が官僚の強制であることを「私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りました」「一部遺憾な事例もあるやうであります」と政府委員は答えている。
政府委員は時の政府の代表である。速記を止めて何を話したかは分からないが、表に出てはまずい情報があったことは確かである




 c)


  内務省警務局   特高月報 昭和十六年十二月 朝鮮人運動の状況 


四、志願兵制度に対する朝鮮人の動向
・・・(略)・・・
然れども翻つて斯る現象を裏面より洞察せば志願兵の胸底には自発的に志願せんとするがごときは稀にして強制的に勧誘せらるるが為めやむを得ず応募せるものなりとの意識を有するものその大部分を占め珠に有識層に於いてはむしろこれを忌避し居るが如き状況すら見受けられるは誠に寒心に堪へざるものあり。今後彼等の動静に関しては尚一層注意の要あると共に一段の指導啓蒙を為すことこそ肝要なり。


「自発的に志願せんとするがごときは稀にして強制的に勧誘せらるるが為めやむを得ず応募せるものなりとの意識を有するものその大部分を占め」「有識層に於いてはむしろこれを忌避」・・・というのが実情だったようだ。



 d)
内務省警務局
  朝鮮人運動の状況<10月分>1943年
      四、陸軍特別志願兵臨時採用規則公布に伴う在住朝鮮人学生の動向
十月二十日陸軍省令第四八号を持って陸軍特別志願兵臨時採用規則公布即日施行となり彼等朝鮮人学徒の向ふべき方向明確となりたるが彼等の動向は事前と対比し何等良好なる傾向傾向認められず、相当甚大なる衝撃を与えたるものの如く表面冷静を持しつつも内心の動揺極めて深刻なるものあるを観取せられたり。
即ち彼等は自己運命の開拓に焦慮し志願忌避の念慮より帰鮮又は休学する者多数に及び登校を継続するもの減少しつつありたり。
而して学校当局、朝鮮奨学会等に於いては国家の要請に応へしむべく関係当局と緊密なる連携を保持し志願推奨に努めたる結果11月20日締め切り日における志願状況左記のごとき状況となり一応相当の好果を収めたるものあるも今後不志願者並に一般朝鮮人学生の指導取締上相当注意を要するものあるを認められたり。

    記
志願状況
在籍学生別    適格者    志願者    不志願者
帰鮮学生     1442     1315     127
内地在留学生   1388     712      996
計        2830     2040     796 
(『在日朝鮮人関係資料集成 第五巻』p259-260)

日本に来ている朝鮮人について「志願忌避の念慮より帰鮮又は休学する者多数に及び登校を継続するもの減少しつつありたり」という。
つまり、志願を忌避して帰鮮し、休学するもの多数で、登校するものは減少しつつある・・・・という訳だ。その後学校当局、朝鮮奨学会に志願推奨させ(=他史料と考え合わせると圧迫・圧力を加え)結果かなりの数の人間が志願者となったのである。


*学徒志願の実態については姜徳相『朝鮮人学徒出陣』がある



            
 ②個別の「強制」の言及、証言

a)
私が帰朝中、村でも三十人ばかりの志願兵応募者の割当を受けているが、それだけの人数がどうしても出来ないし、それでは村の名誉にも拘はるから、お前は三十五歳以上で不合格になることは判っているが名前だけ是非貸してくれと頼まれたので貸したが、その後街頭へ出て見るとなるほど募集に苦心している様な宣伝ビラが沢山貼られているのを見受けた。 さような事は独り私だけではなく、他にもさような事が幾多あった様に聞いている。未だ半島人は心から応募しやうとするものは少ない様だ 
                            滋賀県 傭人  林 秀雄

b)   
我々は志願兵制度に応募する気持にはなれない。何となれば現在の各層を見るに悉く
内鮮人間に差別待遇があり、甚しきは内地婦女子迄が鮮人を軽蔑して居る現状である。
これではとても軍人となり国家の為に生命を賭すると云ふ気持には到底なり得ない。
最近志願兵募集に当り各地共青年に対し半強制的に応募を從慂して居るが、之が皆
逆効果を来たして居る様だ。応募者の地方頒布状況を見ても都会地の青年よりも田
舎の淳朴な青年が多く又中等学校卒業者が少ないのを見ても知識階級は之を喜ばな 
い傾向にあることが窺はれる」 
      金融組合書記某


 c)


朝鮮では男兄弟二、三人あれば必ず一人は兵隊を志願しなければ非国民のように云は
れるので、止むなく三十歳前の人は志願せねばならないと云ふ事である。先日も父
から手紙が来て『お前は帰国すると兵隊を志願しなければならないから帰つて来
ないように』と云ふ意味の事を言つて来たので自分も暫く帰らない考へだ
       岩手県 古物商 李四用



d)
私は志願兵採用制度に大きな矛盾があるので常に反対の意見を持て居る。現在応募の動機は殆ど警察の強制的募集に依るもので、在営中内地の見学旅行、除隊後半島に於ける革新的中堅幹部として青年の指導者たる地位を選られる等の好条件に釣られ功利的に応募した様な実情で志願兵としての真の精神に反するもの許りである。又総督府は必要数丈は容易に得られるのであるが各道に責任数を割当て居り後に之を講評するので警察は勢ひ強制的に募集する様になり茲に無理が生じ入隊しても挨拶も出来ない様なものが入り、内地人軍人から馬鹿にされ延ては帝国軍人の内容と素質を低下させる様なことにもなる。又一面知識階級者は志願を忌避すると云ふ傾向に流れて居り少し金持の所では無理しても子供に上級学校に入学させると云ふ傾向があり思想的に面白くないのである、そこで私は彼等を真に皇民化するには義務教育の徹底と徴兵令の施行を要望するのである                  朝鮮人将校某
  (「特高月報」 昭和十六年十二月 朝鮮人運動の状況)


e)
志願兵が三千人に対し二十五万あるというが之は強制であって余り好感をもっていないようである。徴兵制は一般大衆には無理で余り関心を持たない。又農村の子弟を徴兵して厳格な訓練をしても之に耐えられるるや否疑問である。要は義務教育を徹底してから実施すべきである。      渋谷区代々木原町 無電局員 某

    (「特高月報」 昭和十七 第四 思想運動の状況)



以下は軍属の動員だが、「志願」の名で、圧力・強制がなされていた証言である

   朝鮮半島には国民精神総動員朝鮮連盟(愛国班)が網の目のように張り巡らされ、同化政策を

   推進し、徴用や志願兵に圧力をかけていた

・・・(略)・・・志願する者は、きわめてごくわずかであったようです。その結果、各道に割り当て制を実施し、各府、巴、面長(市町村長)ならびに警察、駐在所より勧誘の結果自己の意志からではなく、周囲の状況からやむなく応募したという実情を、当時その人たちから聞かされておりました。当時の府、巴、面長や警察の勧告がたんなる勧告にすぎざるものでなかったことは想像に難くありません。志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません。・・・(略)・・・
   福田恒夫元陸軍大尉、釜山教育小隊長、シンガポール俘虜収容所員 (藤崎康夫「天皇制に忠誠誓わされ、祖国追われた朝鮮人戦犯」「潮」1972年8月号 p208)


李義吉家具屋の次男として生まれた私は26歳のとき、町内会の人に俘虜監視員になるよう推薦されました。当時、町内会に逆らうということは警察に反逆することと同じと見なされ、どうしようもなかったのです (『潮』1972年8月号p214 


役所の人の誘いにうっかりのって日本の俘虜監視傭員の募集に応じたのが、私の一生が大きく狂うもとになりました。徴用で、2年間だけ軍属になればいいのだからと、巧妙に説得され、農業を投げうって故郷を離れたのです (『潮』1972年8月号 p215-216)

    
丁永玉ひとり息子だったので、父母は私が監視傭員になることは反対でした。ところが、役人が毎日のように家に来て、息子を出さなければ配給をストップすると脅かしたので、両親はしかたなく承諾したのです (『潮』1972年8月号 p217)

              3 結論


志願兵には、自発的というべきものが皆無ではない。一部は自分の考えで志願したものと考えられる。しかし多くは割り当て(ノルマ)が各道、各面に課せられていた中で、圧迫、圧力により逃げられない状況で送り出されたものである。チョン・アンギの研究は、朝鮮人志願兵制度は「朝鮮人社会の積極的動員協力がなければ決して成立できない」というが、それはごく部分的な事実である。その朝鮮人社会の一部が日本軍の戦争意志を実現するために編成されていたからである。朝鮮半島では網の目のように張り巡らされた国民精神総動員朝鮮連盟(国民総力朝鮮連盟)・愛国班や国民精神総動員朝鮮連盟等各機関が、日本内地では協和会が学校や他各機関とともに圧力をかけたのである。国策によって圧力がかけたのだとしたら、これを自発的動員を特徴」と結論づけるのは過度の単純化というより、ただのデマである。強圧により止むを得ず志願せりというもの多し」なのである。




    備考) 張り巡らされた国民精神総動員朝鮮連盟(国民総力朝鮮連盟)と末端の愛国班

『施政三十年史』によれば1939年6月末の時点で愛国班員は460万人余であったという。外村大は「5人組に似た」制度としているが、朝鮮連盟が作成した『非常時国民生活改善基準』を基にした相互監視システムとも言えるだろう。朝鮮連盟の下部組織には「連盟推進隊」もあったが、これは「中堅青年訓練所や陸軍兵特別志願者訓練所の修了者にして、入営の上帰休除隊し朝鮮連盟の講習を受けたもの及び朝鮮連盟において適当と認めたもの」によって構成されていた
君島和彦『朝鮮における戦争動員体制の展開過程』1977)。




          『朝鮮人軍夫の沖縄日記』 岩橋春美訳

          慰安婦の徴集に使われたという話



         『朝鮮人強制連行』外村大
    愛国班は隣組に似たシズテムで、在朝日本人社会を中心に張り巡らされていた。
      






        「朝鮮人志願兵・徴兵の梗概/概説 第六章」という公文書
各道において、「徴兵義務 遂行」に協力し、国民総力朝鮮連盟も大々的な運動をするという。