2020年2月9日日曜日

『反日種族主義』批判②イウヨンの「強制徴用」批判を検証する





『反日種族主義』批判




 当時は「強制連行」という言葉すらありませんでした。特に強制徴用という言葉、今回大法院の判決にも登場したこの言葉が、一体どのような理由で出てきたのかを知っておく必要があります。まず、強制徴用という言葉、そのような概念は、もともとあり得ないものだ。徴用自体が強制だからです。強制徴用という言葉は、我々韓国人がたびたび使う「駅前の前」と同じだ。「駅前」に「前」の字が入っているので、後ろの「前」は必要の無いものだ。同じく強制徴用という言葉にも「強制」という言葉は必要なく、徴用だけでよいものだ。
 それなにになぜ1965年以来今に至るまで、韓国の研究者、政府、言論、市民団体は強制徴用という言葉に執着し、それを使ってきたのか?徴用は戦争が終わるまでの数か月間だけ実施された。それを明確に認めてしまうと、反日種族主義の歴史学に困った問題が生じるのだ。1939年9月から1944年9月までの、より数の多い労務移動が、労務者の自発によるものになるからだ。反日感情を広く伝播させるためには、徴用実施以前にも朝鮮人が自身の意思とは関係なく強制的に連れて行かれ、労務移動の全てが日帝の強制だった、と主張する必要があった。
 つまり、徴用のような強制性を1939年まで遡って、その時期からの全ての移動は強制だったと主張したかったのが、彼らの腹の内でした。こうして作られたのが「強制徴用」です。したがって、この言葉には、単なるミスだとする言い訳では見逃すことが出来ない、巧みな歴史的事実の誇張と歪曲が含まれています。私は、こんなにも深刻な概念的操作を研究者という人たちが何故に行えたのか、どうしても理解できません。(『反日種族主義』~p69)
とイウヨンは書いている。

「特に強制徴用という言葉、今回大法院の判決にも登場したこの言葉が、一体どのような理由で出てきたのかを知っておく必要がある。」とし、その「理由」とやらを書いた部分がこれらしい。
  ↓
理由は「徴用までの労務動員の全てが「強制的だった」としたいがために」・・・であり、それは「つまり、徴用のような強制性を1939年まで遡って、その時期からの全ての移動は強制だったと主張したかったのが、彼らの腹の内でした。」という。

誰かが腹の内で、「1939年まで遡って、その時期からの全ての移動は強制だったと主張したかった」というのだが、それは誰なのだろう?
誰かは分からないが、「腹の中」は分かったらしい。(超能力者か?何か資料出せよ)

これは想像にすぎないのに、断言しちゃっている。

そしてこの想像を元に、相手を攻撃する。

「この言葉には、単なるミスだとする言い訳では見逃すことが出来ない、巧みな歴史的事実の誇張と歪曲が含まれています。私は、こんなにも深刻な概念的操作を研究者という人たちが何故に行えたのか、どうしても理解できません。」・・・と。

「ミスだとする言い訳では見逃すことが出来ない」「巧みな歴史的事実の誇張と歪曲」「深刻な概念的操作を研究者という人たちが何故に行えた」
とかなり手厳しい。

ここで「研究者」と述べているのだから、これは韓国人ないしは朝鮮人の研究者を指しているわけだ。

しかし、こんな事を書く以上、この人ーーイウヨンは、鎌田沢一郎の『朝鮮新話』さえ読んだことがない・・・という事なのだろう。

鎌田沢一郎の『朝鮮新話』でよく引用されるのはこの部分である。


もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。 
納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。


(鎌田沢一郎『朝鮮新話』1950)(元宇垣総督政策顧問、当時総督府機関紙「京城日報」社社長)

明らかに労務動員の拉致、強制性を述べているのだが、問題はこの部分ではなくp323でこう書いていることだ。

朝鮮民衆に誤った強制徴用に対するお詫心を表現し
(鎌田沢一郎『朝鮮新話』p323)

この著作は、1950年の著作である。
戦後、5年しか経ていない。

どういう事か?というと朴慶植(パク・キョンシク)が『朝鮮人強制連行の記録』を著すのは1965年だが、その15年も前にすでに、鎌田沢一郎が強制徴用という言葉を使っているということなのだ。ちなみに鎌田沢一郎は、南次郎時代から小磯時代の労務動員を指して、強制徴用と呼んでいるのである。徴用の事を言っているのではないのだ。「募集」とか「官斡旋」とかいう時代の話である。

おそらく、労務動員を指して強制徴用という言い方はかなり古いのだろう。

イウヨンは「1965年以来今に至るまで、韓国の研究者、政府、言論、市民団体は強制徴用という言葉に執着し、それを使ってきた・・」と書いているが、朝鮮半島でも「強制徴用」という言い方は古くからなされて来たのではなかろうか?調べてみる価値はある。

それから、イウヨンは「強制徴用という言葉、そのような概念は、もともとあり得ないものだ」というのだが、それは鎌田沢一郎に文句を言っているのだろうか?

私の見たところ、イウヨンは、「労務動員における金銭報酬」という部分をごく一部の事業所にのみ特化して調べており、総合的に資料を集めたり、関係諸論文を読んだりしてしていないのだろう。
だからこういう笑える解釈を書いてしまう事になる。

正直、論説全体が穴だらけである。



労務動員の話ではないが
注)帝国議会では戦後すぐの

第89回帝国議会 衆議院 予算委員会 第8号 昭和20年12月10日

で日本進歩党の安藤覺が「當時の総督府は各種の學校に對し人員割當を行ひ、事實上に於ける所の強制徴用をしたのであります、即ち各學校長に對しまして、是等の青少年達が志願的形を執らない限り卒業免状を與へないとか、或は將來に於ての非常な出世の妨げになるとか云ふやうな威迫的な言辭を弄して、事實上志願せざるを得ざる姿に追込んで連れて來た、而も其の狙はれたる所の青少年達は、臺灣に於ける所の中流家庭以上の、而も學校に於ても成績優秀なるものを多く選んで連れて來た、斯う云ふ事實があるのであります」と志願兵について言及している。
強制徴用という言葉がそれなりに使われていたことが分かる。

注)日本の国会では

第1回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第9号 昭和22年10月14日


で緑風会の淺岡信夫議員や北條秀一議員が「強制徴用」という言葉をすでに使っている。

第1回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第12号 昭和22年11月11日

でも緑風会の岡元義人が使用し、1950年(昭和25年)までに12回の国会で「強制徴用」が言及されている。


1972年8月号の『潮』で志願兵について述べた福田恒夫元陸軍大尉もまた「志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません」と述べ、「強制徴用」という言葉を使っている。
・・・(略)・・・志願する者は、きわめてごくわずかであったようです。その結果、各道に割り当て制を実施し、各府、巴、面長(市町村長)ならびに警察、駐在所より勧誘の結果自己の意志からではなく、周囲の状況からやむなく応募したという実情を、当時その人たちから聞かされておりました。当時の府、巴、面長や警察の勧告がたんなる勧告にすぎざるものでなかったことは想像に難くありません。志願という形式をとっておりますものの、その実は強制徴用であったことは否めません。・・・(略)・・・
   福田恒夫元陸軍大尉、釜山教育小隊長、シンガポール俘虜収容所員 (藤崎康夫「天皇制に忠誠誓わされ、祖国追われた朝鮮人戦犯」「潮」1972年8月号 p208)

<朝鮮人労務動員関係で使った他の例は>

第33回国会 参議院 外務委員会 第8号 昭和34年(1959年)11月30日「強制徴用」 加藤シヅエ議員と藤山愛一郎大臣が使っている。

○加藤シヅエ君 それでは外務大臣は日韓会談の交渉中に、その当時強制徴用であったというようなことを向こう側から何かお聞きになりませんですか。


○国務大臣(藤山愛一郎君) むろん向こう側からは強制徴用であったとか、あるいはいろいろなことを言っている場合がございますがしかし、日本側として戦時中に行なわれました朝鮮人の内地におきますいわゆる日本人として内地に移住したという限りにおいて、それが全部いわゆる内地人と別な扱いをしなければならぬというところまで私は実は考えておらぬのであります。特殊な何かケースがありましたら別でございますけれども、いわゆる一般的に徴用したということについては、それは内地人と変わらないという建前をとるべきではないかというのが私の考え方でございます。しかし、御指摘のように、いろいろな問題が起こっているからとか、こういう事実に反したということがあるのだということでありますれば、そういう特殊な問題でこれは扱うべき問題であって、一般的な問題ではないというふうに考えておるということを申し上げます。

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