2020年2月25日火曜日

朝鮮人強制連行ーー労務動員を整理する ①危険な職場・炭鉱と強制動員資料



朝鮮人強制連行ーー労務動員を整理する ①
      1、 危険すぎる職場「炭鉱」
炭鉱での採炭は非常に危険な職場であって、張り巡らされた地下道に降りねばならず天井が
落ちて来る落盤事故、水害、岩粉などによる「じん肺」病、ガス中毒、炭塵への引火と全焼
火災、ガス爆発など死亡事故やケガと隣り合わせの仕事であった。
1939年から45年までの北海道の炭鉱のガス突出あるいは爆発事故だけでも、約14件を数え
る。その中には死者177人を数えた1941年の三菱美唄炭鉱ガス爆発や死者109人を
数えた三菱美唄炭鉱ガス爆発が含まれている。もちろん負傷者も大量に出ている。
(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』
p222より)
イウヨン氏は炭鉱が1930年代には機械が導入されたと述べているが、必ずしもそれは、事故の
減少に繋がらない。かなり機械化して安全も考えられていた戦後の炭鉱でさえ、事故だらけな
のである。この表の中で何度もガス爆発事故を起こしている北炭(北海道炭鉱汽船株式会社)
は、戦後も1960年、65年にガス爆発、68年に坑内火災で、計135人が死んでいる
(『全記録炭鉱』鎌田慧p42)。
大量の石炭を運搬するために、三池炭鉱にベルトコンベアーが本格的に導入されたのは1936年
だが、乾燥した場所ではゴム製ベルトは燃えやすく簡単に火が付き、火災が発生したという
(『閉山』p29 奈賀悟)
戦時中はここにさらに別の危険が追加された。日中戦争が始まると国は企業に石炭の増産を
命じたが、三菱美唄炭鉱ではその割り当てを達成するために、安全性を無視してドベラ(坑
道の側面)を削るように指示が出た。また発破3本ごとに散水して炭塵を防止することになって
いたがこれを無視して7,80本も連続して発破をかけたため作業場は炭塵がもうもうと
立ったという。切羽の天盤が下がって支柱がみしみし鳴っている中でも作業は続けられた。
(前掲『北海道と朝鮮人労働者』p256~261)

田川警察署特高主任であった満生重太郎はこう述べている。「炭鉱では普通でも坑内事故が
多いのに、戦争の末期になると資材が欠乏して坑木さえ手に入らなくなった。落盤事故など
でケガする朝鮮人が多くなりましたからね。・・・保安を手抜きする小さい炭鉱ほど死亡率
が高かったですよ」(『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだい「豊洲炭坑」p223)

麻生商店愛宕炭鉱労務係・野見山巍はこう証言している。「朝鮮人はほとんど坑内で働きま
した。戦時中は無理な掘り方をしたので落盤事故で犠牲者がずいぶん出たですな」
(『朝鮮人強制動員関係資料1』「東北地方朝鮮人強制連行真相調査団聞書 福島県山形
県関係」57)

ノルマ達成のため、15時間を超える労働も当たり前であり、『戦争を知らない世代へⅡ㉑佐
賀編 強制の兵站基地 炭坑・勤労報国・被爆の記録』p115、など複数の日本人の証言も
ある。
1944年、三菱美唄炭鉱の大爆発では、109人(内氏名が確認された朝鮮人71人)が死んでい
るが、その責任は一体どこにあるのだろうか?
(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』
p255より)災害回数のピークは1944年、死者数も断トツに多い。
(北海道保健福祉部保護課発行『北海道と朝鮮人労働者 朝鮮人強制連行実態調査報告書』
p222より) 変死や病死の中にはリンチ殺害が含まれている
炭鉱における朝鮮人の死因の8割以上が事故死である。こうした炭鉱の危険さや納屋制度の
暴力性、それに引き換え賃金の安さなどの悪条件は戦前からよく知られていたので、炭鉱
は万年の人手不足に陥っていた。朝鮮の人達が大量に戦時動員されたのはそういう仕事だ
ったのである。

*貝島大之浦炭鉱が、朝鮮納屋を廃止したのは、1940年。納屋頭は労務係となった。
『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだいp71)

       2、望まぬ職場に連れていかれるということ
「監獄部屋」の異名をとっていた炭鉱、鉱業の3K職場は、労務動員がはじまる1939年よりも
以前から人手不足であり1937年10月警察当局は、朝鮮人求職者が炭坑の求人に応じようとし
ないことを報告し、内務省は労働条件の改善を炭鉱経営者に要請していたが、改善されるこ
とはなかったという。
(労働科学研究所「炭鉱における半島人労務者」/『朝鮮人強制連行』p37外山大)

元日炭高松炭鉱の労務係長・野村勇は、炭鉱の募集について「炭鉱というところは非常に危
険な職場で、他の産業に比べて集まりが非常に悪く、呼びかけても敬遠されました」と述
べている。(『消された朝鮮人強制連行の記録』林えいだいp485)
一方、内地の炭鉱が、朝鮮人を連れてきて安い賃金で酷使したことは、総督府も知っていた
(『朝鮮日報』1937-6-27/『朝鮮人強制連行』p35外山大)
労務動員された朝鮮人が連れていかれたのは、6割以上がその3K職場炭鉱であり、待ってい
たのはタコ部屋的な酷い扱いだった。金賛汀の裁談した『証言 強制連行』p15-16の慶尚北道
に住んでいた金達善の話によると、1941年ころになると募集に応じた人の手紙もあり 「死ぬ
ほどつらい思いをする」という噂が流れていて、「日本に行きたいという人はほとんどいなく
なっていた」という。 
1939年、朝鮮半島に旱魃が襲い、不作だったので生活に困り、労務動員に喜んで応じる人も
いたがすぐにその波は終わり、労務動員計画初年度がはかばかしくない状況に、石炭業界が
厚生省を通して圧力をかけ、1940年3月26日朝鮮総督府は『昭和15年度労務動員計画設定に
至る迄の募集による朝鮮人労務者の移住に関する件』を出させた。これによると「特に石炭
産業に」「内地及樺太移住に関し」「動員計画促進の措置を講ずるものとする」となっている。
(前掲『北海道と朝鮮人労働者』p52~53より)
こうして「促進」された労務動員ではあったが、成績は依然はかばかしくなく、一方では密
航や縁故渡航は増加した。そこで総督府警察は密航の取り締まり強化に動いた。
 合法的な縁故渡航者が選んだ職場の75%は、工場に集中し、17%が土木建築、炭鉱・鉱山
は合わせてもわずか、8%に過ぎない。朝鮮半島の人々にとって炭鉱・鉱山がいかに人気が
ない職場であるかが次の表から分かる。


      (前掲『北海道と朝鮮人労働者』p55より)
            
          3、動員時における強制・拉致
労務動員は、39年9月からの募集に始まったがすぐに壁にぶつかった。そこで42年からはよ
り官憲の関与を深めた官斡旋が始まった。それもまた抵抗が激しくなりノルマを達成するの
が難しくなったので、44年9月からの徴用がはじまった。こうして最初から政府の労務動員
計画にはじまった動員だが、官憲の関与が深まるにつれ強制性も強まり、夜襲、誘出、人質
的掠奪拉致がなされるようになる。こうした動員の実態には様々な資料と証言がある。

動員時の強制資料1)
例えば、鎌田沢一郎 カマダ サワイチロウ(元宇垣総督政策顧問、当時総督府機関紙「京城
日報」社社長)は「もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、
朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。納得の上で応
募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、
突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなく
それに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たす
といふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻
息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。」(鎌田沢一郎『朝鮮新話』1950)
と南次郎総督時代の事を書いている。「寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラッ
クを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込」
んだというのだ。
*(南次郎 第七代総督=1936年(昭和11年)8月5日~1942年(昭和17年)5月29日)(小磯國
昭 第八代総督= 1942年(昭和17年)5月29日 ~1944年(昭和19年)7月22日)(阿部信行 第
九代総督=1944年(昭和19年)7月24日 ~1945年(昭和20年)9月28日
これに対して、鄭大均氏は「この下りは強制連行論者によく引用される箇所ではあるが、傍線部
分が引用されることはまずない(たとえば後述する『朝鮮人強制連行の記録』70頁)」と朴慶
植を名指しで批判している。 (鄭大均 『在日・強制連行の神話』p112)
「引用される箇所」というのは上記「総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の
鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけた」の部分である。
しかしこれは、引用しなくても特に問題があるとは思えない。なぜならすでに複数資料によって
総督府の官僚が決して無罪でないことは明かだからだ。
例えば、総督府鉱工局労務課事務官の田原実は「半強制」を認識していたばかりではなく、
「なおも強化する」ことを述べている。

動員時の強制資料2)

朝鮮総督府鉱工局労務課事務官の田原実は、同じく朝鮮総督府の文書課長であった山名酒喜男や
朝鮮無煙炭労務主任今里新蔵らも出席する座談会で、
「従来の工場、鉱山の労務の充足状況を見ると、その九割までが自然流入で、あとの一割弱が斡
旋だとか紹介所の紹介によっています。ところが今日では形勢一変して、募集は困難です。そこ
で官の力-官斡旋で充足の部面が、非常に殖えています。ところでこの官斡旋の仕方ですが、朝
鮮の職業紹介所は各道に一カ所ぐらいしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関
たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひ
じょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく
山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困
ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供
出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています。」とのべている(『大陸東洋経
済』1943年12月1日掲載「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」 以上 外村大研究室より
 http://www.sumquick.com/tonomura/data.html )(座談会開催は 1943 年 11 月 9 日)
総督府鉱工局労務課事務官は「仕方なく半強制的にやっています」「半強制的な供出は今後もなお
強化してゆかなければなるまいと思ってい」るのだというのだから、総督府は「反強制」を知って
いたし、今後の強化を謀っていたのである。総督府はすでに見てきたように労務動員に協力した。
また各郡や面に割振りした。割振られた各郡や面ではそのノルマを果たすために、強制的な行動を
とった。それを担当の官僚たちも知っていた。



動員時の強制資料4)http://www.sumquick.com/tonomura/data/191025.pdf
「送金僅少または皆無」

動員時の強制資料5)
「復命書」
命を受け、内務省管理局嘱託の小暮泰用が、朝鮮ヘ出張し作成した調査報告書
1944年7月31日、管理局長竹内德治宛


(ハ)、動員の実情
  徴用は別として其の他如何なる方法に依るも出動は全く拉致同様な状態である。
  其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其
の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知
らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼らを精神的に惹付ける何物もなかった
ことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪せつあく)極まることは
往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破滅が屡々
(しばしば)あったからである。
  殊に西北朝鮮地方の労務管理は全く御話にならない程惨酷である、故に彼等は寧ろ
軍関係の事業に徴用されるのを希望する程である。
  斯くて朝鮮内の労務規制は全く予期の成績を挙げてゐない、如何にして円満に出動
させるか、如何にして逃亡を防止するかが朝鮮内に於ける労務規制の焦点となってゐる
現状である。


恐ろしい事だがこの報告書には、労務動員された結果、家庭が破壊される様子が描かれている。


        4 賃金

さて賃金についても引き続き『復命書』から引用である。
1)
六、内地移住労務者送出家庭の実情

 (略)
  然し戦争に勝つ為には斯の如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理
にでも内地へ送り出さなければならない今日である、然らば無理を押して内地へ送出され
た朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果して如何であらうか、一言を以て之れを云ふならば
実に惨?(さんたん)目に余るものがあると云っても過言ではない。
  蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす
悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様で
ある、其の詳細なる統計は明かではないが最近の一例を挙げて其の間の実情を考察する
に次の様である。  大邱府の斡旋に係る山口県下冲宇部炭鉱労務者九百六十七人に就て
調査して見ると一人平均月七十六円二十六銭の内稼働先の諸支出月平均六十二円五十八
銭を控除し残額十三円六十八銭が毎月一人当りの純収入にして謂はば之れが家族の生活
費用に充てらるべきものである。
  斯の如く一人当りの月収入は極めて僅少にして何人も現下の如き物価高の時に之にて
残留家族が生活出来るとは考へられない事実であり、更に次の様なことに依って一層激
化されるのである。
(イ)、右の純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること
(ロ)、内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的
実施及払出の事実上の禁止等があって到底右金額の送金は不可能であること
(ハ)、平均額が右の通りであって個別的には多寡の凹凸があり中には病気等の為
赤字収入の者もあること、而も収入の多い者と雖も其れは問題にならない程の極めて
僅少な送金額であること
以上の如くにして彼等としては此の労務送出は家計収入の停止となるのであり況
(いわん)や作業中不具廃疾となりて帰還せる場合に於ては其の家庭にとっては更に
一家の破滅ともなるのである。

要約すると、無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は惨憺たるも
のであるという。
967人を調査すると一人平均月76円26銭の内稼働先の諸支出月平均62円58銭を控除し、
残額が13円68銭が毎月1人当りの純収入になり、これが家族の生活費用に充てらるべき
ものだが、一人当りの月収入は極めて僅少で、現在のような物価高の時にこれで残留家族
が生活出来るとは考へられない。更に次の様なこともある。

(イ)純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること
(ロ)内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的実施
及払出の事実上の禁止等があって到底右金額の送金は不可能であること

(ハ)平均額が右の通りであって個別的には多寡の凹凸があり中には病気等の為赤字
収入の者もあること、而も収入の多い者と雖も其れは問題にならない程の極めて僅少な
送金額であること

2)
住友本社鴻之舞鉱業所「半島労務員統理綱要」(1941年)「賃金は内地人の約八十%にならしむるを方針とす」

3)


「最近における労務者の闇賃金に就いて」日本銀行(大阪支店)S19-8-18
(『日本金融史資料 昭和編 第30巻 戦時金融資料(4)』日本銀行調査局編集 
大蔵省印刷局発行p388~p390)
●近来極度の人手不足で労賃高騰著しく殊に日雇い労務者に対する賃金は高騰し、公定
賃金の10倍に及ぶものあり 賃金の他に酒肴、昼弁当など食料を給与
●徴用工員の賃金は家族手当、残業手当を含め平均150円検討だが、出勤率極めて悪く
欠勤してひそかに町工場や日雇い労務者として従事する者が多い
●対策 現員徴用するなど強力な統制を加えようとするものや厳罰主義を以て、賃金を
ひきあげようとするもの

物価)
 備考1)一人で生活『「昭和」を生きた台湾青年』王育徳(おう いくとく)  
昭和18年から東京で浪人生活をしていた王は、親に120円の仕送りを受けていたが
(p204)、19年に東大に合格した後も生活は苦しく「父からの送金は120円だったので生活は苦しかった。外食券をもらって外で食べるのだが、2食分食べても腹いっぱいにならなかった」(p207)と書いている。

 備考2)『隣組と戦争』創価学会青年部反戦出版委員会
仙台市 志栄氏 20年4月の仙台空襲の後
「一か月の生活費が当時300円です」(p15)

宮城県桃生郡 菊池つぎを
(昭和19年ころから)「物価はどんどん上がり」(p103)

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